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知りたいことを知る方法

随分久しぶりの更新となってしまいました。
更新を心待ちにずっとこのブログを訪れていたのに・・・なんて読者もいないと思いますが、もしかして万が一いるかもしれず、そういったいるかもしれない読者の方に、今回はお詫びとして特別に知りたいことなら何でも知ることができる方法というものをお教えします。
何でもいいです。
宇宙の果てはどうなっているのか、神は存在するのか、騰がる株は何か、彼女は自分のことをどう思っているか・・・等々。
ただし、知ることが出来る問いはひとつだけなので慎重に選んでください。

では、始めていきます。
例として「神は存在するか」という問いを発した人がいたとします。
神は存在するかということをいくら考え、調べても答えは出ません。
その問いが発せられた動機を考えなければなりません。
何故、数多くある知りたいことの中からその問いを選んだのか。その動機は何であるか・・・。
その問いが発せられた動機は何であるかということを外部に求めても決して見付かりません。
その動機は自分の中にしかありません。
自分の心の中を見つめ、その動機の正体を偽ることなくどこまでも探っていきます。
すると、結局神という絶対無限の力と知恵を持つ存在に助けて欲しい、この苦しみから救って欲しいからだということが分かります。
つまり、もしそういった神という存在が存在するのであれば、神の助けを得たいのだという動機がこの人の中にあるのだということが分かります。
この動機から「神は存在するか」という問いが発せられたわけです。
これでもう答えは出ました。
結局人間は、自分の苦しみ(から解放されること)にしか関心がないのです。
関心がないことは問いません。
あなたが発した問いは、あなたが、苦しみから解放してくれる可能性を見ているもの、そしてあなたの苦しみはどういったものであるかということを必ず表しています。
騰がる株は何かという問いを発した人がいたのなら、その人はお金で苦しみから救われると思っている人であり、また、お金がないことで生じる諸々の事に苦しんでいる人です。
神は存在するかという問いの人は重症で、自分の力でも他人の力でもお金の力でもどうすることも出来ない、神という超越的な力をもったものでなければ解決できないような苦しみを抱えている人です。
自分の将来はどうなるかという問いを発した人は、自分の将来に不安を感じていて、その不安が最も大きな苦しみとなっている人で、その苦しみから解放されたいという動機が、未来を知れれば安心を得られるということでその問いを発せさせます。

なんだ、結局知りたいことは分からないままじゃないかなんていう人はいませんね。
え、いる!?
いいえ、あなたはもう分かっている筈です。
例えば、神は存在するかの人は、神は存在するか否か、そして神とはどのような存在であるか、ということが分かった筈です。
神とは、耐え難い苦しみをどうすることも出来ないという人間の無力からの絶望が生み出した幻想であるということが分かった筈です。
その絶望にも耐え難いが故に、本当は存在しない希望までも作り出して、それを信じることで耐え難い絶望から逃れたいという、みじめな欲求から生み出されたのが神であるということが分かった筈です。
人間の無力が生み出したのが神という幻想なので、その神は必然として絶対無限の力を持つものとなるのです。
そしてその無力は、苦しみをどうすることも出来ない無力ということであり、有力無力は苦ということに関係しています。
先にも言いましたが人間の関心のあることは自分の苦しみだけなのです。
なので、その苦から逃れられるか否かを決める有力無力ということに関心を持つのです。
そして、神でもなければ解決できない苦しみを抱えているということが分かったのであれば、その苦しみは人間には解決不能のものなのであるから背負っていくしかない、ということが分かる筈です。
そして、ここからが分かれ目で、そんな苦しみには耐えられないので、あくまで神という偽りの希望を信じて今このときだけの偽りの安らぎにしがみ付き続けるか、それともその苦しみを背負い、人間には解決不能の逃れることのできない苦しみから逃れようとする無駄な努力は止め、それ以外の自分に出来ることをやって現状を少しでもマシなものにしていくかという分岐点に立っているということが見えてきます。
そう、自分のやっていることが実は、今このときだけの偽りの安らぎを確保する為に偽りの希望を信じそれを追い求めることでしかないということが分かれば、そんなことは馬鹿らしく恥ずかしく続けることが出来なくなる筈です。
つまり、神とは無力からの絶望が、苦しみと絶望を受け容れられない人間の弱さが生み出した幻想として、人間の中にだけ存在するものであるということが分かりましたね。
また、お金を得れば苦しみから逃れられると思っている人も、お金を得れば得たで今度はお金を失うかもしれないという不安に苦しめられます。
人間は、この世に生きている限り、どこまで行っても苦、苦、苦なのです。
どんなに恵まれているように見える人でも苦の無い人はいません。
であれば、苦から逃れるために使っている労力と時間を少しだけ、苦を背負い、苦に安住できるようにするための事に振り向けてはみてはどうか、ということです。
「苦」から逃れるための努力が、更に苦を深めるということになっている人が多いように思います。
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兆候

私はよく旅に出るのですが、長年旅を続けていると面白い法則のようなものがあることに気が付きます。
旅の初めに躓くとその旅は碌なものにならず、旅の初めが好調だと楽しく充実した旅になるのです。
躓くといっても本当に躓いて転ぶというのではなく、忘れ物をしたり、ガソリンスタンドの店員の態度が悪かったり、前の車の急ブレーキでヒヤッとさせられたりといったちょっとしたことなのですが、そういうことがあると大抵その旅は碌なものになりません。
旅先で土砂降りの雨に遭ったり、泊まった旅館で酔っ払いに絡まれたり、何より旅そのものがつまらないもので終わることが多いのです。
逆に、信号にも捉まらず、ギアチェンジもスムーズで何となく気分も高揚してくる、そういうときはよい旅になります。
なので、旅の初めに嫌なことに遭ったりすると「あ、兆候だな」ということで行き先を変更したり、酷いときには引き返したりします。
兆候というのは何かが起こる前ぶれということですが、何かを始めると、始めたことの結果を象徴するような現象が事前に現われるという考え方です。
旅に出発して嫌な事が起きた、これはこのまま旅に行っても碌なことにはならんから止めときな、という天のお告げだと考えるということです。
何をやってもうまくいかず、碌な目に遭わない。こういうときはよく考えてみることです。
自分は本当は、どういう動機から何を求めてこんな事をしているのか。
その動機から行動していることに対する天の戒めかもしれませんよ。
また、その動機から行動している限り、何をどうやっても碌な結果にはならんよ、という天のお告げかもしれません。
この動機で生きている自分に自分で納得がいくということと、自分が好きなことをやるのが大切です。
好きなことというのは、見返りや報酬を必要としない、それ自体で充足し、その一瞬一瞬が、その行為自体が歓びとなることです。
見返りや報酬が得られなければ恨みや後悔が生じるようなことは、基本的にやるべきではないということです。
安心を得んがために嫌なこと、不本意なことを続けるか、絶望を直視し、どうあっても変えられない絶望ならばその絶望を前提とし、その絶望の苦しみと共に、好きなことのやれる納得のいく生を生きるか・・・。
道理として、「自分」のその苦しみは本当に消せる(可能性がある)ものなのか、消せると思っているのは実は苦しみを誤魔化すことでしかないのではないか、それを諦めよ(明らかに観よ)、ということです。
仏教でいう諦観(明らかに真実を観よ)ということです。
ここで言う道理とは、人間の精神の特性、不可抗力性のことです。
消せない苦しみならば、いかに苦しくともその苦しみと共に生きていくしかない、その苦しみを諦めよ、消せない苦しみを消そうとして嫌なこと、不本意なことを続ける馬鹿げた努力は止めろということです。
本当の希望は絶望の中にしかありません。
絶望とは「自分」という絶望です。
また、なにかやりたいことがあったら始めてみることです。
悪い兆候が出たら止めればよし、良い兆候が出たら進めばよし。


仙道未来予知 察気の法
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信じる

信という字の成り立ちは、人の口から出る言葉がその人の心と一致するということなのだそうです。
言行一致の人間は信用できるということなのでしょう。
では、信じるとはどういうことでしょうか。
何かを信じているときには、その何かについて必ず信じていない部分があるものです。
テーブルの上にあるコップを見て「コップがあると信じる」という人はいません。「コップがある」といいます。哲学的問題は別にしてコップがあるということについて100%疑いがないからです。
神についてはどうでしょう。神の存在について100%疑いがないという人はいるでしょうか。神なんて本当はいないと思っている部分があるからこそ「信じる」というのです。
ですから、信じるとは自分に都合の悪い部分から目を逸らし、自分に都合のよい部分だけを見るように努め、そのことにより安心や希望を得よう、不安や絶望の苦しみから逃れようという心の動きであることが分かります。
ここで重要なのは、信じるということは外部の神なり他者なりを信じるということではなく、自分の中の様々な認識の内のどれかひとつだけを(或いは捏造した認識を)恣意的に選び、それ以外は切り捨てるということで、選び取った”或る自分(=認識)”以外の自分は切り捨てて、それは自分ではないとすることに他ならないということです。
自分が怪我を負って、その苦痛が耐え難いからと怪我を負った自分は自分ではないと切り捨てたら、その怪我を治すための行動が起こせなくなります。そのためにいつまで経っても怪我は治らず、逆に傷を深めるような行動を取ったりすることになるので、これは大きな問題です。怪我を治すことが不可能な場合でも、痛みを自覚し続ければこそ傷を深めるようなことはしないのです。
神はいるかもしれないし、いないかもしれないという自然な状態のままにしておけばよいものを、視野を狭め、歪め、”自分”で「自分」を否定することが信じるということなので、信じるということは決してよいことではありません。
つまり、信じるということの動機、目的は自分の主観的な安心を得たいというせせこましく、ちんけなものだということです。
人を見たら泥棒と思っていたら疲れてしまうし安心できないので、人を信じようとするということです。
一般に信じることが善いことだとされているのは、この世は生きるに価する素晴らしいところであり、人間は万物の霊長で生きる価値と意味のある祝福された素晴らしい存在であるといったフィクションを信じねば生きていけないからです。
つまり、この世や人間の本当の姿というのは、生きることにもその存在にも何の意味もなく価値もなく、未来に何の保証も無い、突然明日死んでしまうかもしれないし、何の理由もなくいつどんな酷い目に遭うかも分からないという悲惨なものです。
この本当の現実が人間には耐えられず、この本当の現実の上に生きていくことが人間には出来ないので、国家とか社会とか秩序とか善悪とか神とか価値とか人間の命は地球より重いとか進化とか意味とかの様々なフィクションを作り、それを皆が信じることで一応安心でき、生きていけるフィクションの世界を作り上げ、そのフィクションの世界の上で生きているということなのです。
酷い目に遭うのは悪だからというフィクションは、善であれば酷い目に遭うこともなく幸福になれるという未来の保証となり、善になれば安心が得られるという希望を生み、不安や恐怖や絶望などの超現実の苦しみから逃れられるということから多くの人に信じられています。
また、何かを信じようとするとき、そのちんけな動機に心のどこかでは気付いてしまうものなので、安心を得たいという利己的な欲望のためではなく、善いことだからという価値基準が必要となります。
占星術でいうと、この本当の現実というのが冥王星(超現実)です。この冥王星世界に生きることができないので、土星(社会)というフィクションを作り上げ、土星世界の上に生きているということです。
また、何の根拠もなく自分は価値のある素晴らしい存在で、輝かしい未来が待っていると信じられるのは太陽の働きです。
そのフィクションが成り立っているのは多くの人が信じているからであり、信じる人が少なくなれば崩れてしまい超現実に生きねばならなくなってしまうので、一般に信じることは善いことだとされるのです。
実際に超現実を意識することはあまりありませんが、意識したとすればその恐怖、不安、虚無感に一歩も外に出られなくなってしまうでしょう。
哲学者のニーチェは、安心を得るためにフィクションの奴隷となって生きることの悲惨さ、みじめさを見抜き、超現実の上に立ち、「自分」本来の生を深く味わって生きること、フィクションを基準として生きるのではなく「自分」(の歓び苦しみ)を基準として生きることを人類の理想とし、その理想を実現する人間を超人と呼びました。
が、ニーチェ自身は晩年に発狂して狂人となったまま果てました。一説には脳梅毒のためといわれていますが、私は超現実を見続けたためではないかと思います。それほどまでに超現実というものは耐え難いものなのです。
超現実も辛いですが、「自分」を知ることもまた辛いものです。それでも「自分」を生きるのが理想だというのは、真の喜び、納得は「自分」を生きることでしか得られないものだからです。また、「自分」を生きていないというそのこと自体が、既にして悲惨でみじめなことだからです。
また、信じるということはフレームを狭くし歪ませることであり、狭く歪んだフレームでは、現実や自分の或る部分しか見えなくなり、しかもそれが歪んで見えてきますから、他の人と現実が違ってしまいます。無論、他の人のフレームもどこかしら歪んでいるわけですが、当人にはその自覚が無く、それが本当の現実としか思えませんから、そのことが対人関係の軋轢を生むこととなります。フレームの歪みを直せば対人関係の軋轢も治まりますが、同時にフレームを歪ませることによって見えなくしていた辛い現実なり「自分」なりも見えてきてしまうので、それに耐えられなければ歪んだフレームを維持せざるを得ず、こうして他者との軋轢が続くこととなります。
ですが、この世に、生きることに、本当は何の意味も価値もないということは、かくあらねばならない、こうならねばならないということもないということでもあるのだから、周りの価値観に囚われず気楽に生きていけばいいと思います。
周りの価値観などはフィクションであり絶対などではないのだから、フィクションの基準に合わないからといって、そんなことで苦しむことはないということです。
ですが、人間は超現実には耐えられませんし、超現実の上で生きていくなんてことは不可能なので、どうしてもフィクションを必要とします。
ですので、「自分」に合った、よりよい、或いはよりマシなフィクションを求めるなり作るなりしていけばいいと思います。自分が依って立つことの出来るよりよい自分の土星を見つけてくださいということです。
よりよいというのは、より超現実に近いということです。超現実から離れれば離れるほど土星は脆弱なものになっていくからです。
そして、自分の土星が確立されていなければ、外部の土星に頼らざるを得ず、周りの価値観に隷属せざるを得なくなります。
昔ツッパリという人種がいました。学校なんてくだらないと反抗ばかりしている高校生のことですが、それなら学校を辞めて一人で生きていけばいいのにと思いました。ツッパリは自分の土星が確立できていないがために一人で生きていくことができず、くだらない学校という外部の土星に依存せざるを得ず学校を辞めることができないのです。非常にカッコ悪いと思いました。
当ブログは一応開運ということをテーマにしているので、他の人はどんなことをいってるのだろうと「開運」で検索して見て回ったのですが、マーフィーだのオカルトだのスピリチュアルだのの愚にもつかない理論を滔々と述べているブログやサイトが多かったです。そういうのを見ると腐臭のようなものを感じ、イラッときます。そういったものへ傾倒する動機が、「弱さ」から生じる利己的な欲望に過ぎないのに、あたかも自分は高尚で賢くレベルの高い人間だというような欺瞞、厚顔無恥、鈍感さを感じ、イラッとくるのだと思います。
お前だって占星術だの水野南北だのの怪しげなものを信じてるじゃないかと言われそうですが、ええ、私だって「弱い」人間ですからね、所詮は何かを信じねば生きていけないのですが、信じるということが本当はどういうことで、どういう動機から信じているのかということを自覚していればそれほど問題はありません。
問題となるのは、自分では判定ができないほど当たり前に、空気のようになってしまっている捏造した認識(への信仰)です。
食べることは本能に根ざした根源的な欲求であるから、食に対する態度には己の本当の姿が現れるといいます。何をどのように食べているかという食生活を見れば、その人の境涯、程度が分かるという人もいます。
人間は何かを信じなければ生きていけない。信じることも食べることと同じく生きていくために必要な必要悪であり、そして、信じることはこの上もなく甘美です。であるからこそ慎みが大切です。
水野南北は、諸悪の根源は食を貪ることにあるといいましたが、私はそこに信を貪るということも付け加えたいと思います。
韓非子だったか孫子だったか忘れましたが、悪い知らせから聞けという訓戒があったと思います。悪いニュースは苦痛だからと耳を塞ぎ、いいニュースしか聞かないような人物が君主となった国が長続きする筈が無いというのは、小学生でも分かる当たり前のことですが、韓非子や孫子のような優れた人が、わざわざこんな当たり前のことを言わねばならなかったところにも人間の弱さが表れているように思います。


教祖誕生

神との対話―宇宙をみつける自分をみつける
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30代のおっさん。
過酷極まる俗世間から身を引き、美しい自然の中で一人で生きていける道を模索中です。

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