開運研究所

運気の向上を追求。

夜にそびえる不安の塔

読みたいと思う本もなくなってしまい本を読まなくなってから随分経つが、ある人のブログで絶賛されていたのを見て、また、あまりに魅力的な宣伝文句に惹かれて、久々に読んだ本がこれ。


この本の宣伝文句はこうである。
『私は運命に勝てるのか?
占い、スピリチュアルブームの中で著者は霊感と未来を読む力の解明にのりだす。
5年にわたる潜入取材の間に、次々に起こる不思議な出来事!
人間の運命を操るものの正体とは?
息もつかせぬ迫力で綴る渾身のノンフィクション!
ついに解明したスピリチュアル世界の真実!!』

ワクワクしながら読み始めたが、読み終えての感想は・・・
何故この本が絶賛されるのか、さっぱり分からない。
占い師の予見が外れて、仕事仲間が海外から帰ってきたなんて事が運命に勝ったという事なのだろうか?
そもそも、そんなことが運命に勝った負けたというような重大なことなのだろうか?
5年にわたる潜入取材といっても、電話で相談を受け付ける30分6000円とかの占い師に、毎日のように電話して日常の気になることを占ってもらってるだけで、人間の運命を操るものの正体やスピリチュアル世界の真実なんてことは全く何も解明されてないし、最初からそういったことを解明しようという姿勢も見えない。
この人の関心事は仕事と仕事の対人関係が専らで、占い師に聞く事もそんなことばかり。
そして最後は自分では何もしてないのに、何故か自分の意志で運命を作ったということになっている。

宣伝文句と内容に乖離がありすぎてガッカリ。
スピリチュアルなんて、こっ恥ずかしい言葉を恥ずかしげもなく使っている本はやっぱダメだな。
純粋に内容だけを評価しても、視聴者の興味を惹きそうな占い、スピリチュアルといったことを題材に持ってきて、やっつけ仕事で無理矢理お話にした深夜の低予算ドラマといった感じ。
こんなんで目頭を熱くする人もいるということに驚いた。

この人、電話占いに費やした金額は200万円以上だそうである。
占い師にとってはいいお客さんである。特別扱いもするだろう。
作中ではブームとなっている占いの取材を依頼されて、そのお金もその依頼主から出ていることになっているがどうなんだろうか。
占い依存症になってしまい、占いに大金を費やしてしまったことが悔しくて、そのお金を少しでも取り戻そうとこんな本を書いたのではないか。
驚異の的中率を誇っていた占い師の予見があるとき外れ、そのことで5年も続いた占い依存症から解放され清々したという物語(ノンフィクション)ではないだろうか。
そんなことを思いながら読んでみると、少しは面白いかもしれない。
しかしこの人、出版社の社長であり編集長であり、自身でも本を何冊も出している作家であり、ラジオのパーソナリティーまでやっているすごい人なのだ。
訳が分からない。
これを書いたのが、田口ランディというなら分かるのだが。
まぁ、会社の転換期で不安を感じているときによく当たる占い師がいるなんて話を聞いたら、頼りたくなるのも分かるし、実際によく当たれば依存症になってもおかしくはない。
そうか、この人の言う運命とは、気の合う仲間と仕事を続けられるかどうかいうことではなく、占い依存から抜け出せるか否かということなのだ。
このままでは占い師なしでは何も決められない、占い師に支配された占い師の言いなりの人生となってしまうのではないかといった恐怖を感じ始めていたので、その頃占い師に言われていた仲間と離れ離れになるという予見が外れただけのことが、「占い師の予見に私の意志が勝った」、「その道を私自身の意志が作った」などという一見、訳の分からない大げさな表現となるのだ。
ラストの「もう何ものにも左右されない、希望に満ちた未来がまばゆい光を放ち・・・」は、もう占い師に左右されない、占い依存から抜け出せた未来が・・・ということなのだ。
そもそも、この人にとっての運命とは、占い依存から抜け出せるか否かといった程度の事で、人間の運命を操るものの正体は何であるかといったことは考える必要もない幸運な人なのだ。
5年に渡る占い依存の経験から解明したことも特に無いようで、依存の深みに嵌っていくことの漠とした危機感が描かれた内容の薄いエンタメ本になっている。

この本では人間の運命を操るものの正体は解明されていないので、私が解明してみよう。
運命を操るものの正体とは、あまりに苦し過ぎて、近づくことはおろか見ることさえできない「苦」である。
その「苦」が自身の内に在るということが既に運命である。
現象がいかに良くなろうと、いかに良くしようと、「自分」の住んでいる「世界」が耐えがたい「苦」の「世界」なのであるから、どこまでいっても「地獄」であり、その「地獄」が変える事のできない運命というものである。
また、そのような「苦」が在って手も足も出せないような状態では、現象を良くしていくことも出来ない。
人間は現象に苦しめられるのではない、ある現象によって喚起された自身の内に既に在る「苦」に苦しめられる。
正視することもできない程の「苦」が在るということは、常にその「苦」に背後から脅かされている状態にあるということでもある。
また、その「苦」を喚起する恐れのある現象は恐怖の対象となる。
しかもその恐怖は「苦」が在る故に発生するものなので、その恐怖を認めれば「苦」も認めねばならなくなり、その恐怖を感じていることを認めるわけにはいかない。
こういった状態で、現実に基づいた適切な判断を下し、それに基づいた行動をとっていくことは出来ない。
現実に基づいた良い現象を思い描いても、「地獄」であることに変わりはないということが「分かっているので」、その良い現象を実現しようというモチベーションが湧かないし、実感としてそれが実現すべき良い現象であると判断出来ないのだ。
そして、ひとたびその「苦」が喚起されたら半ばパニック状態となり、ただただその「苦」から逃れることしか考えられなくなり、場違いな馬鹿げた行動をとってしまう。
しかし、その「苦」が見えていないから、自分でも何故そんな行動をとったのか分からない。
そんな行動をとってしまった自分を恥じたり、深く悔やんだりして、今後はそのようなことはないようにしようと固く誓うが、馬鹿げた行動は延々と繰り返される。
いかに固い誓いを立てようが、意志の力など「苦」の前では全くの無力だからである。
不本意な馬鹿げた行動や選択は、人生を自分の望まぬものにしていくが、その流れを押し留める事もできない。
これが「苦」に操られるということ、即ち人間の運命を操るものの正体である。
そもそも、自分の中に「苦」が在るということが既にして、「苦」を味わわずに済ますということが人生の隠れた最優先の目的となっているということであり、何を犠牲にしてもその「苦」を味わうことだけは避けねばならないという絶対的な拘束、制限となっているということなのだ。
「苦」に耐えられなければ、嫌でもそうならざるを得ない。
当然、現象も(発想、価値観、判断の段階から)犠牲にされる。

運命から抜け出す唯一の道は「苦」を背負うことである。
眠れぬ夜などに不意に襲ってくる「苦」・・・
身も心も粉々に砕け散ってしまいそうな、今にも発狂してしまいそうな、この苦しみから逃れられるなら全てを投げ出すと心底思うような、息もできなくなる様な苦しみに耐えながら、その「苦」をありのままに苦しむしかないのである。
これが、運命を形成する「苦」という壁を登り始めた段階である。
そして「苦」の原因を探り、「苦」の正体を知り、、「苦」を受け容れ、「苦」を相対化する。
「苦」を苦として背負った状態であり、「苦」という壁を乗り越え、運命から抜け出し、一段上の新しい「世界」に入った瞬間である。
理屈は単純であるが、言うは易く行なうは難し・・・どれほどの人が運命から抜け出せぬまま生涯を終えてしまうことか。
ましてや、アストラル体がどうの、ハイアーセルフがどうの、潜在意識の力がどうの、神がどうの、前世のカルマがどうのなどと、「苦」を誤魔化し、苦しみから解き放たれた光り輝く素晴らしい世界に行けると在りもしない希望を見せるだけの馬鹿げたドラッグに依存しているようでは、とてもではないが無理なのである。
このページのトップへ

知りたいことを知る方法

随分久しぶりの更新となってしまいました。
更新を心待ちにずっとこのブログを訪れていたのに・・・なんて読者もいないと思いますが、もしかして万が一いるかもしれず、そういったいるかもしれない読者の方に、今回はお詫びとして特別に知りたいことなら何でも知ることができる方法というものをお教えします。
何でもいいです。
宇宙の果てはどうなっているのか、神は存在するのか、騰がる株は何か、彼女は自分のことをどう思っているか・・・等々。
ただし、知ることが出来る問いはひとつだけなので慎重に選んでください。

では、始めていきます。
例として「神は存在するか」という問いを発した人がいたとします。
神は存在するかということをいくら考え、調べても答えは出ません。
その問いが発せられた動機を考えなければなりません。
何故、数多くある知りたいことの中からその問いを選んだのか。その動機は何であるか・・・。
その問いが発せられた動機は何であるかということを外部に求めても決して見付かりません。
その動機は自分の中にしかありません。
自分の心の中を見つめ、その動機の正体を偽ることなくどこまでも探っていきます。
すると、結局神という絶対無限の力と知恵を持つ存在に助けて欲しい、この苦しみから救って欲しいからだということが分かります。
つまり、もしそういった神という存在が存在するのであれば、神の助けを得たいのだという動機がこの人の中にあるのだということが分かります。
この動機から「神は存在するか」という問いが発せられたわけです。
これでもう答えは出ました。
結局人間は、自分の苦しみ(から解放されること)にしか関心がないのです。
関心がないことは問いません。
あなたが発した問いは、あなたが、苦しみから解放してくれる可能性を見ているもの、そしてあなたの苦しみはどういったものであるかということを必ず表しています。
騰がる株は何かという問いを発した人がいたのなら、その人はお金で苦しみから救われると思っている人であり、また、お金がないことで生じる諸々の事に苦しんでいる人です。
神は存在するかという問いの人は重症で、自分の力でも他人の力でもお金の力でもどうすることも出来ない、神という超越的な力をもったものでなければ解決できないような苦しみを抱えている人です。
自分の将来はどうなるかという問いを発した人は、自分の将来に不安を感じていて、その不安が最も大きな苦しみとなっている人で、その苦しみから解放されたいという動機が、未来を知れれば安心を得られるということでその問いを発せさせます。

なんだ、結局知りたいことは分からないままじゃないかなんていう人はいませんね。
え、いる!?
いいえ、あなたはもう分かっている筈です。
例えば、神は存在するかの人は、神は存在するか否か、そして神とはどのような存在であるか、ということが分かった筈です。
神とは、耐え難い苦しみをどうすることも出来ないという人間の無力からの絶望が生み出した幻想であるということが分かった筈です。
その絶望にも耐え難いが故に、本当は存在しない希望までも作り出して、それを信じることで耐え難い絶望から逃れたいという、みじめな欲求から生み出されたのが神であるということが分かった筈です。
人間の無力が生み出したのが神という幻想なので、その神は必然として絶対無限の力を持つものとなるのです。
そしてその無力は、苦しみをどうすることも出来ない無力ということであり、有力無力は苦ということに関係しています。
先にも言いましたが人間の関心のあることは自分の苦しみだけなのです。
なので、その苦から逃れられるか否かを決める有力無力ということに関心を持つのです。
そして、神でもなければ解決できない苦しみを抱えているということが分かったのであれば、その苦しみは人間には解決不能のものなのであるから背負っていくしかない、ということが分かる筈です。
そして、ここからが分かれ目で、そんな苦しみには耐えられないので、あくまで神という偽りの希望を信じて今このときだけの偽りの安らぎにしがみ付き続けるか、それともその苦しみを背負い、人間には解決不能の逃れることのできない苦しみから逃れようとする無駄な努力は止め、それ以外の自分に出来ることをやって現状を少しでもマシなものにしていくかという分岐点に立っているということが見えてきます。
そう、自分のやっていることが実は、今このときだけの偽りの安らぎを確保する為に偽りの希望を信じそれを追い求めることでしかないということが分かれば、そんなことは馬鹿らしく恥ずかしく続けることが出来なくなる筈です。
つまり、神とは無力からの絶望が、苦しみと絶望を受け容れられない人間の弱さが生み出した幻想として、人間の中にだけ存在するものであるということが分かりましたね。
また、お金を得れば苦しみから逃れられると思っている人も、お金を得れば得たで今度はお金を失うかもしれないという不安に苦しめられます。
人間は、この世に生きている限り、どこまで行っても苦、苦、苦なのです。
どんなに恵まれているように見える人でも苦の無い人はいません。
であれば、苦から逃れるために使っている労力と時間を少しだけ、苦を背負い、苦に安住できるようにするための事に振り向けてはみてはどうか、ということです。
「苦」から逃れるための努力が、更に苦を深めるということになっている人が多いように思います。
このページのトップへ

兆候

私はよく旅に出るのですが、長年旅を続けていると面白い法則のようなものがあることに気が付きます。
旅の初めに躓くとその旅は碌なものにならず、旅の初めが好調だと楽しく充実した旅になるのです。
躓くといっても本当に躓いて転ぶというのではなく、忘れ物をしたり、ガソリンスタンドの店員の態度が悪かったり、前の車の急ブレーキでヒヤッとさせられたりといったちょっとしたことなのですが、そういうことがあると大抵その旅は碌なものになりません。
旅先で土砂降りの雨に遭ったり、泊まった旅館で酔っ払いに絡まれたり、何より旅そのものがつまらないもので終わることが多いのです。
逆に、信号にも捉まらず、ギアチェンジもスムーズで何となく気分も高揚してくる、そういうときはよい旅になります。
なので、旅の初めに嫌なことに遭ったりすると「あ、兆候だな」ということで行き先を変更したり、酷いときには引き返したりします。
兆候というのは何かが起こる前ぶれということですが、何かを始めると、始めたことの結果を象徴するような現象が事前に現われるという考え方です。
旅に出発して嫌な事が起きた、これはこのまま旅に行っても碌なことにはならんから止めときな、という天のお告げだと考えるということです。
何をやってもうまくいかず、碌な目に遭わない。こういうときはよく考えてみることです。
自分は本当は、どういう動機から何を求めてこんな事をしているのか。
その動機から行動していることに対する天の戒めかもしれませんよ。
また、その動機から行動している限り、何をどうやっても碌な結果にはならんよ、という天のお告げかもしれません。
この動機で生きている自分に自分で納得がいくということと、自分が好きなことをやるのが大切です。
好きなことというのは、見返りや報酬を必要としない、それ自体で充足し、その一瞬一瞬が、その行為自体が歓びとなることです。
見返りや報酬が得られなければ恨みや後悔が生じるようなことは、基本的にやるべきではないということです。
安心を得んがために嫌なこと、不本意なことを続けるか、絶望を直視し、どうあっても変えられない絶望ならばその絶望を前提とし、その絶望の苦しみと共に、好きなことのやれる納得のいく生を生きるか・・・。
道理として、「自分」のその苦しみは本当に消せる(可能性がある)ものなのか、消せると思っているのは実は苦しみを誤魔化すことでしかないのではないか、それを諦めよ(明らかに観よ)、ということです。
仏教でいう諦観(明らかに真実を観よ)ということです。
ここで言う道理とは、人間の精神の特性、不可抗力性のことです。
消せない苦しみならば、いかに苦しくともその苦しみと共に生きていくしかない、その苦しみを諦めよ、消せない苦しみを消そうとして嫌なこと、不本意なことを続ける馬鹿げた努力は止めろということです。
本当の希望は絶望の中にしかありません。
絶望とは「自分」という絶望です。
また、なにかやりたいことがあったら始めてみることです。
悪い兆候が出たら止めればよし、良い兆候が出たら進めばよし。


仙道未来予知 察気の法
このページのトップへ

FC2Ad

FC2ブログ(blog)

カレンダー

10 | 2009/11 | 12
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

プロフィール

しゃかしゃか

Author:しゃかしゃか

30代のおっさん。
過酷極まる俗世間から身を引き、美しい自然の中で一人で生きていける道を模索中です。

カテゴリー

最新の記事

過去ログ

最新コメント

リンク

このブログをリンクに追加する

検索



FC2ニュース



天気予報


-天気予報コム-

月の相と位置



相場



ランキング



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる