開運研究所

運気の向上を追求。

兆候

私はよく旅に出るのですが、長年旅を続けていると面白い法則のようなものがあることに気が付きます。
旅の初めに躓くとその旅は碌なものにならず、旅の初めが好調だと楽しく充実した旅になるのです。
躓くといっても本当に躓いて転ぶというのではなく、忘れ物をしたり、ガソリンスタンドの店員の態度が悪かったり、前の車の急ブレーキでヒヤッとさせられたりといったちょっとしたことなのですが、そういうことがあると大抵その旅は碌なものになりません。
旅先で土砂降りの雨に遭ったり、泊まった旅館で酔っ払いに絡まれたり、何より旅そのものがつまらないもので終わることが多いのです。
逆に、信号にも捉まらず、ギアチェンジもスムーズで何となく気分も高揚してくる、そういうときはよい旅になります。
なので、旅の初めに嫌なことに遭ったりすると「あ、兆候だな」ということで行き先を変更したり、酷いときには引き返したりします。
兆候というのは何かが起こる前ぶれということですが、何かを始めると、始めたことの結果を象徴するような現象が事前に現われるという考え方です。
旅に出発して嫌な事が起きた、これはこのまま旅に行っても碌なことにはならんから止めときな、という天のお告げだと考えるということです。
何をやってもうまくいかず、碌な目に遭わない。こういうときはよく考えてみることです。
自分は本当は、どういう動機から何を求めてこんな事をしているのか。
その動機から行動していることに対する天の戒めかもしれませんよ。
また、その動機から行動している限り、何をどうやっても碌な結果にはならんよ、という天のお告げかもしれません。
この動機で生きている自分に自分で納得がいくということと、自分が好きなことをやるのが大切です。
好きなことというのは、見返りや報酬を必要としない、それ自体で充足し、その一瞬一瞬が、その行為自体が歓びとなることです。
見返りや報酬が得られなければ恨みや後悔が生じるようなことは、基本的にやるべきではないということです。
安心を得んがために嫌なこと、不本意なことを続けるか、絶望を直視し、どうあっても変えられない絶望ならばその絶望を前提とし、その絶望の苦しみと共に、好きなことのやれる納得のいく生を生きるか・・・。
道理として、「自分」のその苦しみは本当に消せる(可能性がある)ものなのか、消せると思っているのは実は苦しみを誤魔化すことでしかないのではないか、それを諦めよ(明らかに観よ)、ということです。
仏教でいう諦観(明らかに真実を観よ)ということです。
ここで言う道理とは、人間の精神の特性、不可抗力性のことです。
消せない苦しみならば、いかに苦しくともその苦しみと共に生きていくしかない、その苦しみを諦めよ、消せない苦しみを消そうとして嫌なこと、不本意なことを続ける馬鹿げた努力は止めろということです。
本当の希望は絶望の中にしかありません。
絶望とは「自分」という絶望です。
また、なにかやりたいことがあったら始めてみることです。
悪い兆候が出たら止めればよし、良い兆候が出たら進めばよし。


仙道未来予知 察気の法
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宿命と運命

今回は宿命と運命について私の考えを述べてみましょう。
まず、宿命というのは、人間には越えることの出来ないもの、また越えることに意味がなく、越えようとすべきでもないもの。
対して運命というのは、越えることが(一応)可能であり、越えることに意味があり、越えるべきもの、です。
具体的に言うと、宿命というのは人間として生まれてしまった以上、人間として生きていくしかないといったことです。
更に言えば、様々な外部要因(運)により「自分」が形成されてしまった以上、「自分」として生きていくしかないということです。
対して運命というのは、その「自分」が自分自身に耐え難いものであり、或いは「自分」であっては生きていけないと思っているが故に、「自分」という宿命から逃れようとして「自分」以外の何者かになろうとする試みにより陥るものです。正確に言えば、「自分」に近づくことさえ出来ないが故に、「自分」以外の何者かにならざるを得ない状態です。この状態が運命を作り出します。
ですので、「自分」が満足のいく心地よいもので、或いは何とか耐えられる範囲のものである人(「自分」から逃避しないで済んでいる人)に運命はありません。これは運命を越えているというよりも、最初から運命という領域に陥っていないということです。
では、自分にとって耐え難い「自分」とは何か。
トラウマ、屈辱、恐怖、恥、みじめさ、陰惨、残酷、醜さ、罪悪、劣等、絶望、理不尽、疾しさ、異常さ・・・なんであれ自分にとって耐え難い苦痛をもたらすものを抱えている「自分」です。
この「自分」こそが宿命であり、この「自分」から逃れようとすると運命に陥ります。
「自分」から逃れようとするということは、自分は「自分」であるということを認めず、「自分」以外の”自分”であると認識しているということです。しかし、事実としての「自分」がある以上、”自分”とは架空のものでしかなく、事実に根ざさない砂上の楼閣です。
砂上の楼閣なので、ちょっと風が吹いただけですぐに崩れそうになります。しかし、その砂上の楼閣でしかない”自分”が崩れるということは、その”自分”によって隠されていた「自分」が自分の目に露わになるということで、しかし、「自分」は自分にとって耐え難いものである・・・故にその”自分”にしがみつかざるを得ず、いつ”自分”が崩されてしまうかという不安に脅かされ続け、その不安から逃れるために”自分”を強固にすることのみに汲々とし、それ以外のことは考えることすら出来ない(考えること、考え方の有りよう自体が”自分”としてのものでなければならなくなる。内面的な思考レベルから”自分”を外れるわけにはいかなくなる)・・・これが運命です。
”自分”とは事実に根のないものであり、そもそもが嘘であるので、自分は”自分”であるということに確信が持てず、非常に脆いものです。なので、自分は”自分”であるということを取り保つ為に、絶えずそれを支えてくれる根拠を求めることになります。
そして、その根拠が自分の中にないわけですから(そもそもが嘘なわけですから)、必然的に外部に状況証拠的、既成事実的な根拠を求め、それが得られなければ強要したりします。
その根拠となるものは人により様々ですが、要は他者から”自分”であると認められることであり、”自分”として扱われることです。
自分は”自分”であると他者から認められる為に必要となる(と当人が思っている)ものが、地位であったり、権力、名誉、名声、お金、明るさ、強さ、武勇伝、魅力、頭のよさ、経歴、友人の多さ、といったもので、つまりは”自分”を証拠立て、証明する状況証拠、既成事実です。
そして、”自分”とは「自分」を否定する必要から生まれたものですから、「自分」と反対のものになります。罪悪に対しては正義、弱さに対しては強さ、恥に対しては誇り、劣等に対しては優等など。
そういった”自分”(を証拠立てるもの)への欲望は詰まるところ、「自分」から逃避したい欲望、即ち(苦痛な)宿命から逃げ出したい欲望です。というか、全ての欲望は苦しみから逃れたいという欲望であり、この欲望が仏教でいうところの執着ということなのだと思います。
この欲望は自然なものですが、嘘でもいいからという安易な逃避を計ると道を誤り、運命に陥ることになります。
ですので、運命とは、「自分」という苦痛から逃れさせてくれるドラッグを求め続けざるを得ない状態、そのドラッグ(たる他者の評価)の奴隷となっている状態で、そのドラッグを得るためにはいかに苦痛でも不本意でも(それが「自分」という苦痛よりはマシである間は)何でもせざるを得ず、そのドラッグが貰えなくなる危険を感じることは(いかに「自分」が望んでいることであっても)一切出来ないという状態です。
運命とは、ドラッグという鎖に繋がれた全く自由のない状態です。ドラッグが切れたら、「自分」という苦痛が襲ってくる・・・そしてそれに耐えられない。
宿命でさえ不自由な狭い牢獄のようなところであるのに、運命はさらに狭く不自由・・・しかも、決して宿命の外に出ているわけではなく、宿命の中でも底辺の極一部の狭い範囲でしかない。
ですので、運命から抜け出すためには、いかに耐え難く苦痛であっても、「自分」を認め、「自分」を背負い、「自分」として生きていく、即ち宿命を生きるしかありません。
「自分」を背負うとは、自分が「自分」である理由を正確に理解し知り尽くすことです。
運命に閉じ込められ、それも耐え難く、かといって「自分」を背負い宿命に生きることもできない・・・そういった人達が求め、希望を見出すのがオカルトとか神とか宗教とかなのでしょう。
しかし、オカルトとか宗教も「自分」を背負わぬ限り、どこまでいっても「自分」からの逃避にしかすぎず、即ち運命に他なりません。
というか、客観的絶対的事実などというものは存在せず、事実は自分の中にしかありません。つまり、何故「それ」をやるのか、という自分の本当の動機こそが「それ」を位置付ける唯一の指標であり、事実なのです。
オカルトでも宗教でも、莫大な財を築いて慈善事業で多くの人を助けるといった世界中の誰もが尊敬し感謝することであっても、それをやる本当の動機が「自分」からの逃避、「自分」という苦痛を紛らわすドラッグを求めてのことであったら、それは運命に他ならず、運命の中で生きている限り碌なことにはなりません。
後者の慈善事業で多くの人を助ける人にしても、それを成し遂げても他の人には感謝されるでしょうが、当人にしてみれば「それ」の位置付けは「自分」を背負えないが故に「自分」から逃避せざるを得ず、「自分」以外の”自分”となって「自分」という苦痛を味わわないで済ませるために、自分は”自分”であるという根拠、状況証拠を求め、それを得たということに過ぎず、この「事実」を心のどこかでは分かっているので、そこまでのことを成し遂げてさえ本当の充実感であるとか満足、誇り、生きている実感を感じることもなく、逆にみじめさや恥、後ろめたさ、虚しさみたいなものを感じ続けるのではないでしょうか。
そこまでやっても得られるのは、ただ「自分」という苦痛をドラッグで誤魔化していることによる不健全な快楽、痛みを麻酔で遮断しているだけの楽さであり、その痛みの元となっている「自分」は決して消えないし、その「自分」に対して一歩も働きかけることもないまま、折り合いもつけられぬまま、ドラッグ中毒者として、麻酔を乞う乞食として一生を終えてしまうということなのですから・・・
つまり、どんなに立派なお題目を唱えても(真理、悟り、解脱、人類愛、神など)、世界中の誰もが認める立派で偉大なことでも、それをやる当人の本当の動機がどういうものかということが、当人の本当の満足、誇りといったものを決定付ける唯一のものだということです。
最後に、私の好きなニーチェの言葉を引用して終わりたいと思います。
「最も暗い運命(宿命)を大きく肯定する生の強さを示すことこそが、人間にとって最も偉大で高貴な事業である」
「君達は己自身に耐えることが出来ない、また己自身を充分に愛していない。それで君達は隣人を愛へと誘い、誘いに乗った隣人のその過ちによって己をメッキしようとするのだ」
「悪とは何か?(「自分」を背負うことの出来ぬ)弱さから生じる一切のもの」

ニーチェと仏教
湯田豊/著

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最大の開運法は「自分」を知ること

運の良い人というのは、開運とか運命といったことに関心は持たないと思います。どうにも耐え難い苦しみがあり、それを自分ではどうすることも出来ないというとき、人は何らかの超越的な力によって、その苦しみから解放されたいという思いから、開運、運命といったことに関心を持つのだと思います。
自分ではどうすることも出来ない苦しみに直面してしまう、それは運の悪さ故だという理屈から、運を良くすれば何とかなるかもしれないという希望を見出すわけです。つまり、どうすることも出来ないという絶望の苦しみを、その希望を見出すことによって回避するわけです。
私見を述べれば、苦しみに意味などなく、ただ単に運の悪さ故のメカニカルな帰結に過ぎないのではないか。
では、運とは何か、運とは何が基になって形成されているものなのか、と問われても当然分かりませが、決定的なのは生まれついた環境でしょう。ここに人間の無力、どうにも出来なさ、不可抗力というものがあります。
「三つ子の魂百まで」という諺がありますが、幼年期は誰でも家、親が全世界であり、絶対なわけです。当然その世界、絶対に応じた自我が形成されます。そしてその自我は、その絶対性なり、親に見捨てられたら生きていけないといった死の恐怖なり、その他諸々の自覚するのが耐え難い苦痛によって固定され、あるいは拘束され、自我の再形成は容易ではありません。それ故に、外部(一般社会なり現実なり事実なり)に適応した家、親であれば外部に適応した自我が形成され、外部への移行もスムーズですが、そうでない場合も多々あるわけです。そのような場合に、「自分ではどうすることも出来ない苦しみに直面してしまう」ということになりがちです。
まぁ、これはひとつのモデルケースに過ぎないのですが、とにかく、どういう家、親の下に生まれるかなんてことは選べないわけですから、そこにまずひとつ目の運というものがあり、これが決定的なわけです。
私は、風水や占星術も、こういう思想によって形成されているように思えます。つまり、生まれついた環境がその人の一生を決する、と。
風水は本来、インテリアの配置を変えて開運するなどというものではなく、もっと長いスパン、その家の7代目、8代目の子孫に対しての影響を考えるというものでした。祖先の遺体を良いエネルギーに満ちた土地に埋めることで、祖先の遺体(昔は土葬)を通してその土地の良いエネルギーを自分達(子孫)に取り込み、そのエネルギーの結果があらわれるのが7代目、8代目の子孫という、非常に気の長いものでした。
つまり、風水では、家、親によって幼年期に形成された自我を、自分で変えることなどできない、よって家、親自身が良いエネルギーによって徐々に良くなっていき、良くなった家、親からの良い影響を受けた子供が、運の良い幸福な人生を送り、それが代々受け継がれていくということを目指しているのだと思うのです。
では、そのエネルギーとは一体何なのかということもありますが、おいおい追求していきたいと思います。
私は、現代においても、多少なりとも名を上げていたり、幸福な人生を送っている人というのは、必ず、そういった何らかのエネルギーのサポートがあるように思います。
過去の偉人などを見ても、何代か前の祖先に名を上げた人がいたり、高貴な家系の血を受け継いでいたりするものです。
とりとめのない文章になってしまいましたが、それ故に、そういったエネルギーなり何なりのサポートを得なくても、自分で自分の自我を変えることさえ出来れば、何の問題もないわけですが、それはなかなか出来ることではありません。かといって良いエネルギーなり何なりのサポートを得るといっても、なにをどうしたらよいのやら・・・。
昨日、TVに瀬戸内寂聴が出てきて、「過去も未来も思い煩うことなく、今、このときのことのみを考え、全力を尽くせ」なんてことを言ってましたが、こういうのは逃避の一種でありダメです。「自分」を知るためには、過去を振り返り、徹底的に掘り起こさねば。「自分」を知って、初めて自我を変えられ、悪運(=現実、事実からズレた自我)から解放されます。まぁ、全ての人が現在の不運の原因が過去にあるというわけではないのでしょうが。
このブログでは、私があれこれ手を出してきた、とんでも系からオカルト系、占い、その他様々な開運法(と名の付くこと)について、独断と偏見に満ちた雑感を述べていきたいと思います。そのうえで、真の開運とは、どうすれば本当に運が開け、よりよい人生が送れるようになるかということを追求していけたらと思います。

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過酷極まる俗世間から身を引き、美しい自然の中で一人で生きていける道を模索中です。

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