輪廻転生という思想は、仏教の教えのように思われていますが、釈迦の生誕以前のBC8〜BC2世紀頃には既にあったようです。
霊魂が一定のアイデンティティを保ち、永遠にあの世とこの世を行き来するという思想です。
で、この思想に注目する訳は、現世の不幸は前世で犯した罪の贖罪としてであるということが含まれている為です。故に、現世の不幸は前世で犯した罪、即ち、業=カルマを浄化すれば解消されるという理屈が成り立ち、カルマを落とすことが開運に繋がるのでは、ということからです。
しかし、この思想からすると、罪に対する罰としての不幸であり、その不幸に苦しむことがカルマの浄化となるということらしいので、この思想は開運どころか、かえって運を悪くする思想と言えるでしょう。
滝に打たれたり、変な体操をしたり、朝日に手を合わせたり、マラソンをすればカルマを落とせるなんて言っている本も読んだことがありますが、・・・というカンジです。と言いつつ私も昔は寒い中、水シャワーを浴びたりしたこともありますが。
この思想を信じると何故運が悪くなるかというと、現在、理不尽に苦しめられてたりしても、前世で犯した罪の贖罪としの苦しみだということになり、その理不尽に対して解決するための行動を起こせなくなるからです。つまり、目の前の苦しみが理不尽なものかどうかの現実的判断がつかなくなるわけです。
では、なぜこんな思想が生き続けているかというと、理不尽な苦しみを解決しようとしても、解決できそうにないという絶望を感じている人が大勢いるからです。
例えば、冤罪で刑務所に入れられている人がいるとしましょう。そして、どうあっても冤罪を晴らせないという状況にあったら、その人の苦しみは、犯罪を犯してそれに見合った刑罰として刑務所に入れられている他の受刑者の苦しみとは比較にならない程の耐え難いものでしょう。そういった苦しみを、この思想は、まさにドラッグのように消し去ってくれます。つまり、現世で罪を犯していなくても前世で犯した、それに対する罰だということにすれば、理不尽が理不尽でなくなり、理不尽という苦しみから逃れられるからです。
そういったドラッグとしての需要が、いつの時代にも途切れることなくあったために、この思想は信じられ、生き続けてきたのだと思います。
また、そもそも永遠の霊魂だとかあの世だとかが信じられてきたのも、死に対する恐怖から逃れたいという需要があるためでしょう。自分の存在、意識そのものが消滅していまうという恐怖が耐え難いがために、生物学的生命が終わっても、自分というアイデンティティは永遠に生き続けるという神話を信じれば、その恐怖から逃れられる、或いは和らぐ。
遠い昔、前述のような苦しみの中で喘いでいる誰かが、輪廻転生という思想を発明し苦しみから逃れられるという効能があったので、それが広まり、現在まで受け継がれて来たということなのでしょう。
では、開運にはどうすればいいかというと、いかに苦しくても、理不尽であれば理不尽であるという「事実」、無力でみじめな自分という「事実」を見失わない、誤魔化さないことです。
言うは易くで、それが出来ないからほとんどの人は運命から逃れられません。運命という言葉が存在すること自体が、それを表しているのではないでしょうか。
耐え難い苦しみを感じる「事実」というものが、あなたの運命の壁です。その壁に触れると(見ると)耐え難い苦しみが生じるがために、その壁に触れない生き方をし、その壁に規定された、今のあなたが住んでいる狭い「世界」に閉ざされ続け、それ故に運命的な人生を送ることになります。
同じ信じるなら、ドイツの哲学者ニーチェが発明した永劫回帰という思想のほうがいいと思います。
一見、輪廻転生と似たような思想ですが、違うのは、生まれ変わっても今のあなたの人生と全く同じ人生を送る、それを永遠に繰り返す、ということです。
もし、あなたが現在、苦しい人生、灰色の退屈な人生を送っているとしたら・・・それと全く同じ人生を永遠に繰り返さねばならず、その循環のどこにも抜け道がないとしたら・・・。
試みに永劫回帰を本気で信じてみてください。自分にとって何が一番大切で、これからどうしてゆくべきか、ヒントが見つかるのではないでしょうか。