開運研究所

運気の向上を追求。

信じる

信という字の成り立ちは、人の口から出る言葉がその人の心と一致するということなのだそうです。
言行一致の人間は信用できるということなのでしょう。
では、信じるとはどういうことでしょうか。
何かを信じているときには、その何かについて必ず信じていない部分があるものです。
テーブルの上にあるコップを見て「コップがあると信じる」という人はいません。「コップがある」といいます。哲学的問題は別にしてコップがあるということについて100%疑いがないからです。
神についてはどうでしょう。神の存在について100%疑いがないという人はいるでしょうか。神なんて本当はいないと思っている部分があるからこそ「信じる」というのです。
ですから、信じるとは自分に都合の悪い部分から目を逸らし、自分に都合のよい部分だけを見るように努め、そのことにより安心や希望を得よう、不安や絶望の苦しみから逃れようという心の動きであることが分かります。
ここで重要なのは、信じるということは外部の神なり他者なりを信じるということではなく、自分の中の様々な認識の内のどれかひとつだけを(或いは捏造した認識を)恣意的に選び、それ以外は切り捨てるということで、選び取った”或る自分(=認識)”以外の自分は切り捨てて、それは自分ではないとすることに他ならないということです。
自分が怪我を負って、その苦痛が耐え難いからと怪我を負った自分は自分ではないと切り捨てたら、その怪我を治すための行動が起こせなくなります。そのためにいつまで経っても怪我は治らず、逆に傷を深めるような行動を取ったりすることになるので、これは大きな問題です。怪我を治すことが不可能な場合でも、痛みを自覚し続ければこそ傷を深めるようなことはしないのです。
神はいるかもしれないし、いないかもしれないという自然な状態のままにしておけばよいものを、視野を狭め、歪め、”自分”で「自分」を否定することが信じるということなので、信じるということは決してよいことではありません。
つまり、信じるということの動機、目的は自分の主観的な安心を得たいというせせこましく、ちんけなものだということです。
人を見たら泥棒と思っていたら疲れてしまうし安心できないので、人を信じようとするということです。
一般に信じることが善いことだとされているのは、この世は生きるに価する素晴らしいところであり、人間は万物の霊長で生きる価値と意味のある祝福された素晴らしい存在であるといったフィクションを信じねば生きていけないからです。
つまり、この世や人間の本当の姿というのは、生きることにもその存在にも何の意味もなく価値もなく、未来に何の保証も無い、突然明日死んでしまうかもしれないし、何の理由もなくいつどんな酷い目に遭うかも分からないという悲惨なものです。
この本当の現実が人間には耐えられず、この本当の現実の上に生きていくことが人間には出来ないので、国家とか社会とか秩序とか善悪とか神とか価値とか人間の命は地球より重いとか進化とか意味とかの様々なフィクションを作り、それを皆が信じることで一応安心でき、生きていけるフィクションの世界を作り上げ、そのフィクションの世界の上で生きているということなのです。
酷い目に遭うのは悪だからというフィクションは、善であれば酷い目に遭うこともなく幸福になれるという未来の保証となり、善になれば安心が得られるという希望を生み、不安や恐怖や絶望などの超現実の苦しみから逃れられるということから多くの人に信じられています。
また、何かを信じようとするとき、そのちんけな動機に心のどこかでは気付いてしまうものなので、安心を得たいという利己的な欲望のためではなく、善いことだからという価値基準が必要となります。
占星術でいうと、この本当の現実というのが冥王星(超現実)です。この冥王星世界に生きることができないので、土星(社会)というフィクションを作り上げ、土星世界の上に生きているということです。
また、何の根拠もなく自分は価値のある素晴らしい存在で、輝かしい未来が待っていると信じられるのは太陽の働きです。
そのフィクションが成り立っているのは多くの人が信じているからであり、信じる人が少なくなれば崩れてしまい超現実に生きねばならなくなってしまうので、一般に信じることは善いことだとされるのです。
実際に超現実を意識することはあまりありませんが、意識したとすればその恐怖、不安、虚無感に一歩も外に出られなくなってしまうでしょう。
哲学者のニーチェは、安心を得るためにフィクションの奴隷となって生きることの悲惨さ、みじめさを見抜き、超現実の上に立ち、「自分」本来の生を深く味わって生きること、フィクションを基準として生きるのではなく「自分」(の歓び苦しみ)を基準として生きることを人類の理想とし、その理想を実現する人間を超人と呼びました。
が、ニーチェ自身は晩年に発狂して狂人となったまま果てました。一説には脳梅毒のためといわれていますが、私は超現実を見続けたためではないかと思います。それほどまでに超現実というものは耐え難いものなのです。
超現実も辛いですが、「自分」を知ることもまた辛いものです。それでも「自分」を生きるのが理想だというのは、真の喜び、納得は「自分」を生きることでしか得られないものだからです。また、「自分」を生きていないというそのこと自体が、既にして悲惨でみじめなことだからです。
また、信じるということはフレームを狭くし歪ませることであり、狭く歪んだフレームでは、現実や自分の或る部分しか見えなくなり、しかもそれが歪んで見えてきますから、他の人と現実が違ってしまいます。無論、他の人のフレームもどこかしら歪んでいるわけですが、当人にはその自覚が無く、それが本当の現実としか思えませんから、そのことが対人関係の軋轢を生むこととなります。フレームの歪みを直せば対人関係の軋轢も治まりますが、同時にフレームを歪ませることによって見えなくしていた辛い現実なり「自分」なりも見えてきてしまうので、それに耐えられなければ歪んだフレームを維持せざるを得ず、こうして他者との軋轢が続くこととなります。
ですが、この世に、生きることに、本当は何の意味も価値もないということは、かくあらねばならない、こうならねばならないということもないということでもあるのだから、周りの価値観に囚われず気楽に生きていけばいいと思います。
周りの価値観などはフィクションであり絶対などではないのだから、フィクションの基準に合わないからといって、そんなことで苦しむことはないということです。
ですが、人間は超現実には耐えられませんし、超現実の上で生きていくなんてことは不可能なので、どうしてもフィクションを必要とします。
ですので、「自分」に合った、よりよい、或いはよりマシなフィクションを求めるなり作るなりしていけばいいと思います。自分が依って立つことの出来るよりよい自分の土星を見つけてくださいということです。
よりよいというのは、より超現実に近いということです。超現実から離れれば離れるほど土星は脆弱なものになっていくからです。
そして、自分の土星が確立されていなければ、外部の土星に頼らざるを得ず、周りの価値観に隷属せざるを得なくなります。
昔ツッパリという人種がいました。学校なんてくだらないと反抗ばかりしている高校生のことですが、それなら学校を辞めて一人で生きていけばいいのにと思いました。ツッパリは自分の土星が確立できていないがために一人で生きていくことができず、くだらない学校という外部の土星に依存せざるを得ず学校を辞めることができないのです。非常にカッコ悪いと思いました。
当ブログは一応開運ということをテーマにしているので、他の人はどんなことをいってるのだろうと「開運」で検索して見て回ったのですが、マーフィーだのオカルトだのスピリチュアルだのの愚にもつかない理論を滔々と述べているブログやサイトが多かったです。そういうのを見ると腐臭のようなものを感じ、イラッときます。そういったものへ傾倒する動機が、「弱さ」から生じる利己的な欲望に過ぎないのに、あたかも自分は高尚で賢くレベルの高い人間だというような欺瞞、厚顔無恥、鈍感さを感じ、イラッとくるのだと思います。
お前だって占星術だの水野南北だのの怪しげなものを信じてるじゃないかと言われそうですが、ええ、私だって「弱い」人間ですからね、所詮は何かを信じねば生きていけないのですが、信じるということが本当はどういうことで、どういう動機から信じているのかということを自覚していればそれほど問題はありません。
問題となるのは、自分では判定ができないほど当たり前に、空気のようになってしまっている捏造した認識(への信仰)です。
食べることは本能に根ざした根源的な欲求であるから、食に対する態度には己の本当の姿が現れるといいます。何をどのように食べているかという食生活を見れば、その人の境涯、程度が分かるという人もいます。
人間は何かを信じなければ生きていけない。信じることも食べることと同じく生きていくために必要な必要悪であり、そして、信じることはこの上もなく甘美です。であるからこそ慎みが大切です。
水野南北は、諸悪の根源は食を貪ることにあるといいましたが、私はそこに信を貪るということも付け加えたいと思います。
韓非子だったか孫子だったか忘れましたが、悪い知らせから聞けという訓戒があったと思います。悪いニュースは苦痛だからと耳を塞ぎ、いいニュースしか聞かないような人物が君主となった国が長続きする筈が無いというのは、小学生でも分かる当たり前のことですが、韓非子や孫子のような優れた人が、わざわざこんな当たり前のことを言わねばならなかったところにも人間の弱さが表れているように思います。


教祖誕生

神との対話―宇宙をみつける自分をみつける
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マーフィーの法則による開運

マーフィーの法則というのが一時期流行りました。今でも熱烈なファンがいるようです。
理想の状態を思い描き、それが必ず実現するのだと夜昼となく念じ続ければ、それが潜在意識に刷り込まれ潜在意識の力によって実現するのだそうです。
これは、言ってみれば科学の発達により神を信じにくくなった現代に登場した新しい宗教です。新しいといっても、死にかけの神に”潜在意識の活用”といった”科学”の仮面を被せて復活させただけのことだとですが。
超越的な力を持つ神に祈れば、神が苦しみや不幸を解決してくれ願望を叶えてくれる、ということから、超越的な力を持つ潜在意識なるものに理想の状態を刷り込めば、潜在意識が苦しみや不幸を解決してくれ願望を叶えてくれるということになっただけで、本質は宗教、信仰であることに変わりはありません。依存の対象が変わっただけです。
潜在意識というと心理学のようですが、心理学では潜在意識の影響というのは必ずその人にとって都合の悪い嫌なもので、言ってみれば、その人が願う理想の状態の実現を頓挫させようとするものです。
その人にとって都合の悪い嫌なこと、苦痛なことから目を逸らせば、それは潜在意識へと追いやられます。
心理学の用語で言えば、顕在意識(=自我)の中にあった或る認識を自我領域から追い出し、無意識の領域へと抑圧する、ということになります。
マーフィーの法則というのは、それ(その人にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦痛なことから目を逸すこと)を薦めているので、実践すればするほど事態は悪化していきます。潜在意識に刷り込まれるのは、その人にとって都合の悪いことだからです。
そもそも自覚できているということは、自我の領域内にあるからであって、決して潜在意識などではないのです。自覚が出来ないからこその潜在意識であり無意識なのです。
なので、理想の状態をいくら強く思い描いても、それは自我の領域内のことであって潜在意識などは関係しません。
理想の状態が必ず実現するのだと強く思い描けば思い描くほど、というか、その実現に障害となる、或いは実現が不可能であるといった不都合な要因から目を逸らせば逸らすほど、不都合な要因の方が潜在意識(の領域)に刷り込まれる(追いやられる)ことになります。そして、目を逸らしたからといって、その要因が消えてなくなるわけではなく、ただ、自我の視野の範囲内から消えたというだけで、視野の範囲外(無意識、潜在意識の領域)で依然として存在し続け、視野の範囲外から様々な影響を及ぼし続けます。その影響は、その要因を自我の領域内に取り戻す(つまり自覚する)まで止むことはありません。
そして、その影響とは先にも言ったとおり、必ず悪い影響なのです。何故なら、潜在意識に刷り込まれたのは、その人が目を逸らした、その人にとって都合の悪いものだからです。
都合のよい事実から目を逸らす人はいません。都合が悪く、苦痛なので目を逸らします。なので、潜在意識に刷り込まれている(抑圧されている)のは必ず、自覚したら耐え難い苦しみをもたらす、その人にとって都合の悪い「事実」だけなのです。都合のよい、心地よい、ポジティブなものが潜在意識に刷り込まれるなどということはありえません。
例えば、或る人が浮浪者のような汚い格好をして、悪臭をプンプン放ちながらレストランに入っていったとしましょう。当然追い出されます。しかし、自分がそのような汚い格好をしているという「事実」から目を逸らしている人は、何故追い出されたのかが分からず、人権迫害、差別だなどと怒り心頭となるでしょう。そして、その「事実」から目を背け続ける限り、この人は一生こういった”人権迫害、差別”に苦しみ続けます。
つまり、自分が浮浪者のような汚い格好をしているという、みじめさ、恥に耐え切れず、その「事実」から目を逸らせば、そんな格好でレストランに入っていけば追い出されるという当たり前の現実をも見失うことになります。この当たり前の現実のことを仏教では「道理」というそうです。
ですので、なにが開運に繋がるかといえば、自分にとって耐え難く、都合の悪い「事実」に目を向け、「道理」を知ることだと思うのです。
潜在意識は活用するものなどではなく、その悪影響をいかに減らしていくかという観点から見るべきものだと思うのです。
ただ、都合の悪い「事実」に目を向けるということ、これが簡単なようでなかなか難しいのです。目を逸らすということは、まさに無意識的にやっていることなので(つまり目を逸らしているということの自覚がないので)、努力とか決意(などの自我の力)で何とかなるものではないのです。
「事実」を背負うには、やはり何らかの運の様なものが必要となるように思います。
しかし、心が「その方向」に向いていなければ、運に出遭っても気付かずに通り過ぎていくだけです。
ですので、運とは何かといえば、その「事実」に耐えられない自分を、耐えられる自分にしてくれる何かと出遭えることだと思うのです。


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