開運研究所

運気の向上を追求。

西洋占星術による開運

占いが何故当たるのか、その根拠、メカニズムが問われることはあまりありません。恐らく、当たらなくて当然の迷信、当たったというときはまぐれだと思っているか、神秘的、超越的な理屈では分からない何かがあり、考えても分からない、科学的に分析、実証できないのだから問うてもしかたないということなのでしょう。
1976年にコラーストロム(N.Kollerstrom)という人が、英国占星学協会AA機関紙に発表した研究によると、銀溶液や硫化鉄と硝酸銀の1%溶液に濾紙を浸した場合、月と火星の動きに対する反応がみられたとのことです。また、溶液に1%の硫化鉛を加えることにより土星の動きに対する反応もみられたとのこと(火星、土星が黄道上で同じ位置に来たとき、濾紙に吸収される鉛の量が増大するのだそうです)。
太陽や月は、光、熱、引力など目に見える影響を地球に与えているので、地球上に住む人間にも有形、無形の影響を与えるのではないかとも考えられますが、遠く離れた土星や冥王星などが地球、人間に影響を及ぼす、人間の運命に関わりがあるというのは、ちょっと考えにくいことです。
しかし、前述の研究結果のように、遠く離れた天体も科学的に解明されていない何かを発していて、それが地球まで届き何らかの影響を人間の精神に、延いては運命に及ぼすのかも知れません。というか、西洋占星術の主張、根拠はそういうことであり、後はそれを信じるか信じないかということでしょう。まぁ、それよりなにより本当に占星術が開運に役に立つのか否かということですが。
占星術の基本は、ネイタルチャートという生まれた時の天体の配置を図にしたものから生まれ持った運勢を解読することと、ネイタルチャートの各天体の位置に対して、現在や未来の実際に運行している天体の関わりを見て今現在や未来の運勢を判断するということです。
ですが、同じホロスコープでも見る人によって診断結果にかなり差が出ます。これは、それぞれの人が違ったフレームで世界や他者や自分や物事を位置付けて認識しているため、その差が出るということです。分かりやすく言えば価値観とかのことですが、私が思うに本当の開運というのは、性能の悪いフレームがより性能の良いフレームに変わることであり、例えば棚ぼた式に大金を得ても、それが悪しきフレームに対し何の影響も及ぼすことがなければ開運でも幸運でもないと思っています。
フレームというのは、「その人」がどういう「世界」に住んでいるかということで、地獄のような「世界」に住んでいて、それで大金を得たとしても実際に実感として幸福感はあまりないでしょう。
カルマ落としのところでも少し触れましたが、例えば人間は必ず死ぬという絶望、恐怖から逃れるために輪廻転生を信じている人がいたとします。その人の希望は善を積み、悪を犯さず、神に認められ神の恩寵を受け、あの世や来世で幸福な生活を送ることです。
この人の場合、悪を犯すという選択肢がありません(その善悪の基準もそれぞれの人が持つフレームによって違うのですが)。正確にいえば、この人が信じている神の規範から外れるという選択肢が心理レベルから無く、実際にそういう選択を出来ないわけです。選択肢の少なさはイコール自由の無さであり、自由が少ないほど運命的、宿命的な人生を送ることになります。
無論、だからといって悪を犯せなどと言っているわけではありませんが、そもそもなにが運命かといえば、その「世界」に住んでいて、その「世界」の外に出ることが出来ず、一生をその「世界」で過ごすということ自体がひとつの運命です。
それぞれの人が、違った”現実”の中に生きているわけです。
ですので、酷い”現実”から抜け出すことが開運なのだと思っているわけですが、そのためには、前述の人の例でいえば人間は必ず死ぬという絶望や恐怖を受け入れ、背負わねばなりません。そうして初めて輪廻転生という「世界」から抜け出すことが出来ます。
この譬えは分かりにくかったかもしれませんが、その死という絶望、恐怖を、背負い切れないでいるトラウマであるとか、恥、惨めさ、屈辱、理不尽、自己嫌悪、将来の絶望などといったことに置き換えるとピンと来るものがあるかもしれません。
つまり、そのフレームを支え固定しているのは、あまりの苦しさ故に直視できないでいる「なにか」だと思うのです。
その「なにか」を隠し、見ないで済むようにするためには、そのフレームでなければならないということです。
ですので、いくら占星術を勉強しホロスコープとにらめっこしても、あまり開運には繋がらないように思います。
私は、その「なにか」を直視するのに、過去の後悔していることに対して何故あのとき別の選択肢を選べなかったのか、納得がいく答えが出るまでその理由をノートに書き出してみるのがよいと思うのですが、これは私のネイタルチャートにおいて言語の水星と超現実の冥王星がトラインであり、たまたま私には書くことがよかったというだけのことかも知れません。

      

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水野南北の節食による開運

水野南北は江戸後期の観相学者です。
幼い頃に両親が他界し孤児となり、鍛冶屋をやっていた叔父のもとに引き取られます。十歳の頃から飲酒を始め喧嘩口論で生傷が絶えず、十八歳の頃、酒代欲しさに犯罪を犯し入牢。牢内で囚人と娑婆の人間との人相に際立った差異があることを発見し観相学に興味を持ちます。
出獄後、さっそく巷の易者に人相を観てもらったところ、「剣難の相があり、あと一年の命。避難の法は出家すること」と言わます。
その後しばらくして、刃物沙汰があり危うく命を落としそうになるという事件が起こり、易者に言われたことを真に受けた南北は禅寺に入門を乞いますが、前科者の南北など受け入れるわけにはいかない住職は、一年間麦と大豆だけの食事を続けられたら入門を許すと告げます。態よく追い払う口実だったわけですが、南北はそれを実行します。
麦と大豆だけの粗食で港湾労働に従事して生計を立て一年が経ちます。が、剣難にも遭わず命もある・・・。先の易者を訪ね問いただすと、剣難の相が消えている、なにか大きな功徳を積んだに違いないと言われ、食事を変えたことを話すと、それが陰徳を積んだことになって相まで変えたのだとのこと。
禅寺に入る必要もなくなった南北は観相家を志し、二十一歳の時諸国遍歴の旅に出ます。人相を観るため床屋で働いたり、全身の相を観るため銭湯で働いたり、死相を観るため火葬場で働いたりして観相の研究を続けます。しかし、いくら研究をしても百発百中とはいかず、悩んだ末、伊勢神宮に参詣し断食と水ごりの荒行を修めた結果、「人の運は食にあり」との天啓を得ます。
それ以後、名古屋の熱田神宮の近くに居を構え、生涯粗食を貫きました。主食は一日に麦を一合五勺、副食は一汁一菜、大好きな酒も一日一合と決め、盆も正月もなくそういった粗食、節食を貫きました。
南北自身は貧窮短命の相で、決して成功するような相ではなかったそうですが、食を慎んだため七十八歳まで健康に生き、観相家として千人もの門人を抱える大家となり、晩年は皇室の贔屓を受け従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」及び「日本中祖」の号を贈られ、一丁四方の大きな屋敷に倉が七棟という財を成しました。

南北の思想の要諦は、人間にはそれぞれ持って生まれた徳分というものがあり、その徳分に応じ、一生の間に摂ることが許されている食事の量は決まっている、故にその徳分を越えた量を摂れば、徳を損ねて運が悪くなり、食を慎めば徳が余り、余った徳は運の良さとなって表れるということのようです。
この思想の基となる理屈はこういうことのようです。
この世に生まれたということは、天より生命を与えられたということであり、それは同時に生命を全うするのに必要な一生分の食も与えられているということである。
命ある者には全て天与の食事量が確保されている。
この世で自分が所有しているものは天与の食事量のみであり、それ以外のものはお金でも物品でも、たまたま自分に巡り来たっているだけであり、自分のものではない。天与の食事量以外のものは、全て天の所有物である。
故に、お金や物を貧しい人に施しても、また自分が充分に食して日々神に美味を献じても、徳を積んだことにはならない。
常食が三椀であれば二椀にすることが本当の徳というものである。
それは自分の所有物である食を天に献じることであるからだ。
自分が持っているものは食のみであり、食以外に献じるものなど何も持っていない。
自分の所有物ではない、元々が天の所有である物をいくら差し出したところで、それは施しでも何でもない。
食べなければ生命を保てない。食は命である。持っているものは命だけなのである。食を献じてこそ初めて徳を積んだといえるのである。
天は献じられた食を他にまわすことが出来るので、三椀を二椀にすれば一椀を他の生あるものに施したことになり、一椀分徳を積んだことになる。
逆に、自分の割り当て以上に食する者は、天に借りをつくっていることになる。また、必要以上に他の命を奪っていることになる。
借りたものを返すのは天地の真理である。貸主が人間ならば催促もしようが、天は催促なしに取り立てる。自分の代に取り立てられなければ子孫から取り立てる。子孫から取り立てられなければ、その家を亡ぼし家系を断絶してしまう。
この真理によって、身の程知らずに大食の者は不運で、災難や損失が多くなるのである。

とにもかくにも食を慎みさえすればよいとのことのようで、南北の著書におもしろい問答があります。
問「食を慎むのは容易いのですが、遊所行きを止めるのは難しく悩んでいます」
南北の答え「それは大いに結構なことだ。何と言っても慎しみの第一は食である。遊所に行って散財し、放蕩と言っても、食を慎んでいれば家がなくなったり病気になることはなく、長生きしておのずから富むのである。食は本である。その本を厳しく慎めば他のことは枝であり論ずるに足りない。今後とも食を慎んで遊所に行きなさい。食を慎んでさえいればすべての凶悪は許される」
他のところでは、食を慎んでさえいれば犯罪を犯しても許されるとまで言っています。
実際に南北は大きな財を成し名声も得、観相も先ず、食の多少を聞き、それによって占えば万に一つも外したことがなかったということで、食と運には何か関係があるのかもしれません。
毒も極少量であれば薬となるように、食べ物も人体にとっては異物であることに変わりはなく、生命維持に必要な量以上の食事は体内に異物を溜め込んでいるようなもので、それは毒となり健康を害すことになる・・・ガンなども贅沢病といわれ、ガン細胞が増殖するにもエネルギーが必要で、過食により体内に使われない余剰エネルギー、毒がある状態というのは発病の可能性が高い。餓死すれすれのわずかの餌しか与えないラットには、ガン細胞を移植しても全く育たないという実験結果も出ているそうです。
確かに人間にとって健康はなにより大切なもので、健康に過ごせることは幸福なことですが、それだけで食を慎めば運が開けるとは言えないでしょう。
人間も動物であることを考えれば、飢えた状態というのは、生命の危機的状態であり、何としても糧、獲物を見つけ、捕獲し摂取せねばならない状態で、本能的に脳が活発に働く状態であると考えることもできます。つまり、動物は生命維持、種の存続のみが仕事で、それ以外のときは無駄にエネルギーを消費しないため何もしないようにできていると考えれば、人間も満腹のときや体内に余剰エネルギーがあるときは脳が働かず、行動をセーブするホルモンか何かが分泌されているのではないか。食を慎み脳が活発に働いている者は、人生の様々な分岐点で、冴えた頭で良い方向を選んだり、行動を起こしたりして運を掴み開運となる、一方、過食の者は・・・などとこじつけることも出来ますが、それだけではない、何かがあるような気もして興味は尽きません。
「天子をはじめとして生あるものは、食べるための業のないものはない。鳥獣にいたるまで日々駆けまわって心身を労して食べている。これは食が業にそなわる所である。人としてその業をしないものはない」
身近な、当たり前のように食べている日々の食というものも、深く考えてみれば、その先に人間の本質であるとか、運命の根本要因であるとか、そういった何かが見えてくるような気がするのです。
お金の掛からない(というか節約になり)、健康にもよい開運法、始めてみるのもよいかもしれません。
具体的にどうすればよいかというと、食事の量を控えめにする、というそれだけのことですが、南北の言葉を引用してみましょう。
「その人間の体の大小強弱、働きの多寡(運動量)によって、おのおの適量がある。たとえば三膳食べて満腹する者は、二膳半食するをもって腹八分といい、また腹に節なりというのである。空腹となって食欲をおぼえたとき人間の内臓は自然とその口を開くものであり、また、腹八分目になると自然とその口を閉じるものである。そこで節制すればよいのであるが、なおかつ食べるので内臓の口が閉まらなくなり、ますます食べないと満腹感をおぼえないという悪循環が起こる。これを宿食(しゅくじき)といい、病の根源かつ凶運の原因となるものである。非運病身となるのは、みな飲食より起こることを知らねばならない」
ただし、いくら腹八分目の節食を心掛けても、コンビニ弁当やカップラーメンなどのジャンクフードではダメで、新鮮で健全な食事を規則正しく摂らねばなりません。
「食事の時間が不規則な者は、吉相であっても運勢は凶である。何事も成就しそうで成就せず、生涯、生活が不安定で、晩年は特にそうである」
現代女性はどんどん社会進出を果たし、強い、元気だなどと言われていますが、これはダイエットに励み、知らず知らずの内に陰徳を積み開運している女性が多いということなのかも。


だまってすわれば 観相師水野南北一代
神坂次郎/著



食は運命を左右する 現代語訳相法極意修身録
水野南北/著 玉井礼一郎/訳


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カルマ落としによる開運

輪廻転生という思想は、仏教の教えのように思われていますが、釈迦の生誕以前のBC8〜BC2世紀頃には既にあったようです。
霊魂が一定のアイデンティティを保ち、永遠にあの世とこの世を行き来するという思想です。
で、この思想に注目する訳は、現世の不幸は前世で犯した罪の贖罪としてであるということが含まれている為です。故に、現世の不幸は前世で犯した罪、即ち、業=カルマを浄化すれば解消されるという理屈が成り立ち、カルマを落とすことが開運に繋がるのでは、ということからです。
しかし、この思想からすると、罪に対する罰としての不幸であり、その不幸に苦しむことがカルマの浄化となるということらしいので、この思想は開運どころか、かえって運を悪くする思想と言えるでしょう。
滝に打たれたり、変な体操をしたり、朝日に手を合わせたり、マラソンをすればカルマを落とせるなんて言っている本も読んだことがありますが、・・・というカンジです。と言いつつ私も昔は寒い中、水シャワーを浴びたりしたこともありますが。
この思想を信じると何故運が悪くなるかというと、現在、理不尽に苦しめられてたりしても、前世で犯した罪の贖罪としの苦しみだということになり、その理不尽に対して解決するための行動を起こせなくなるからです。つまり、目の前の苦しみが理不尽なものかどうかの現実的判断がつかなくなるわけです。
では、なぜこんな思想が生き続けているかというと、理不尽な苦しみを解決しようとしても、解決できそうにないという絶望を感じている人が大勢いるからです。
例えば、冤罪で刑務所に入れられている人がいるとしましょう。そして、どうあっても冤罪を晴らせないという状況にあったら、その人の苦しみは、犯罪を犯してそれに見合った刑罰として刑務所に入れられている他の受刑者の苦しみとは比較にならない程の耐え難いものでしょう。そういった苦しみを、この思想は、まさにドラッグのように消し去ってくれます。つまり、現世で罪を犯していなくても前世で犯した、それに対する罰だということにすれば、理不尽が理不尽でなくなり、理不尽という苦しみから逃れられるからです。
そういったドラッグとしての需要が、いつの時代にも途切れることなくあったために、この思想は信じられ、生き続けてきたのだと思います。
また、そもそも永遠の霊魂だとかあの世だとかが信じられてきたのも、死に対する恐怖から逃れたいという需要があるためでしょう。自分の存在、意識そのものが消滅していまうという恐怖が耐え難いがために、生物学的生命が終わっても、自分というアイデンティティは永遠に生き続けるという神話を信じれば、その恐怖から逃れられる、或いは和らぐ。
遠い昔、前述のような苦しみの中で喘いでいる誰かが、輪廻転生という思想を発明し苦しみから逃れられるという効能があったので、それが広まり、現在まで受け継がれて来たということなのでしょう。
では、開運にはどうすればいいかというと、いかに苦しくても、理不尽であれば理不尽であるという「事実」、無力でみじめな自分という「事実」を見失わない、誤魔化さないことです。
言うは易くで、それが出来ないからほとんどの人は運命から逃れられません。運命という言葉が存在すること自体が、それを表しているのではないでしょうか。
耐え難い苦しみを感じる「事実」というものが、あなたの運命の壁です。その壁に触れると(見ると)耐え難い苦しみが生じるがために、その壁に触れない生き方をし、その壁に規定された、今のあなたが住んでいる狭い「世界」に閉ざされ続け、それ故に運命的な人生を送ることになります。
同じ信じるなら、ドイツの哲学者ニーチェが発明した永劫回帰という思想のほうがいいと思います。
一見、輪廻転生と似たような思想ですが、違うのは、生まれ変わっても今のあなたの人生と全く同じ人生を送る、それを永遠に繰り返す、ということです。
もし、あなたが現在、苦しい人生、灰色の退屈な人生を送っているとしたら・・・それと全く同じ人生を永遠に繰り返さねばならず、その循環のどこにも抜け道がないとしたら・・・。
試みに永劫回帰を本気で信じてみてください。自分にとって何が一番大切で、これからどうしてゆくべきか、ヒントが見つかるのではないでしょうか。

   

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30代のおっさん。
過酷極まる俗世間から身を引き、美しい自然の中で一人で生きていける道を模索中です。

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