開運研究所

運気の向上を追求。

宿命と運命

今回は宿命と運命について私の考えを述べてみましょう。
まず、宿命というのは、人間には越えることの出来ないもの、また越えることに意味がなく、越えようとすべきでもないもの。
対して運命というのは、越えることが(一応)可能であり、越えることに意味があり、越えるべきもの、です。
具体的に言うと、宿命というのは人間として生まれてしまった以上、人間として生きていくしかないといったことです。
更に言えば、様々な外部要因(運)により「自分」が形成されてしまった以上、「自分」として生きていくしかないということです。
対して運命というのは、その「自分」が自分自身に耐え難いものであり、或いは「自分」であっては生きていけないと思っているが故に、「自分」という宿命から逃れようとして「自分」以外の何者かになろうとする試みにより陥るものです。正確に言えば、「自分」に近づくことさえ出来ないが故に、「自分」以外の何者かにならざるを得ない状態です。この状態が運命を作り出します。
ですので、「自分」が満足のいく心地よいもので、或いは何とか耐えられる範囲のものである人(「自分」から逃避しないで済んでいる人)に運命はありません。これは運命を越えているというよりも、最初から運命という領域に陥っていないということです。
では、自分にとって耐え難い「自分」とは何か。
トラウマ、屈辱、恐怖、恥、みじめさ、陰惨、残酷、醜さ、罪悪、劣等、絶望、理不尽、疾しさ、異常さ・・・なんであれ自分にとって耐え難い苦痛をもたらすものを抱えている「自分」です。
この「自分」こそが宿命であり、この「自分」から逃れようとすると運命に陥ります。
「自分」から逃れようとするということは、自分は「自分」であるということを認めず、「自分」以外の”自分”であると認識しているということです。しかし、事実としての「自分」がある以上、”自分”とは架空のものでしかなく、事実に根ざさない砂上の楼閣です。
砂上の楼閣なので、ちょっと風が吹いただけですぐに崩れそうになります。しかし、その砂上の楼閣でしかない”自分”が崩れるということは、その”自分”によって隠されていた「自分」が自分の目に露わになるということで、しかし、「自分」は自分にとって耐え難いものである・・・故にその”自分”にしがみつかざるを得ず、いつ”自分”が崩されてしまうかという不安に脅かされ続け、その不安から逃れるために”自分”を強固にすることのみに汲々とし、それ以外のことは考えることすら出来ない(考えること、考え方の有りよう自体が”自分”としてのものでなければならなくなる。内面的な思考レベルから”自分”を外れるわけにはいかなくなる)・・・これが運命です。
”自分”とは事実に根のないものであり、そもそもが嘘であるので、自分は”自分”であるということに確信が持てず、非常に脆いものです。なので、自分は”自分”であるということを取り保つ為に、絶えずそれを支えてくれる根拠を求めることになります。
そして、その根拠が自分の中にないわけですから(そもそもが嘘なわけですから)、必然的に外部に状況証拠的、既成事実的な根拠を求め、それが得られなければ強要したりします。
その根拠となるものは人により様々ですが、要は他者から”自分”であると認められることであり、”自分”として扱われることです。
自分は”自分”であると他者から認められる為に必要となる(と当人が思っている)ものが、地位であったり、権力、名誉、名声、お金、明るさ、強さ、武勇伝、魅力、頭のよさ、経歴、友人の多さ、といったもので、つまりは”自分”を証拠立て、証明する状況証拠、既成事実です。
そして、”自分”とは「自分」を否定する必要から生まれたものですから、「自分」と反対のものになります。罪悪に対しては正義、弱さに対しては強さ、恥に対しては誇り、劣等に対しては優等など。
そういった”自分”(を証拠立てるもの)への欲望は詰まるところ、「自分」から逃避したい欲望、即ち(苦痛な)宿命から逃げ出したい欲望です。というか、全ての欲望は苦しみから逃れたいという欲望であり、この欲望が仏教でいうところの執着ということなのだと思います。
この欲望は自然なものですが、嘘でもいいからという安易な逃避を計ると道を誤り、運命に陥ることになります。
ですので、運命とは、「自分」という苦痛から逃れさせてくれるドラッグを求め続けざるを得ない状態、そのドラッグ(たる他者の評価)の奴隷となっている状態で、そのドラッグを得るためにはいかに苦痛でも不本意でも(それが「自分」という苦痛よりはマシである間は)何でもせざるを得ず、そのドラッグが貰えなくなる危険を感じることは(いかに「自分」が望んでいることであっても)一切出来ないという状態です。
運命とは、ドラッグという鎖に繋がれた全く自由のない状態です。ドラッグが切れたら、「自分」という苦痛が襲ってくる・・・そしてそれに耐えられない。
宿命でさえ不自由な狭い牢獄のようなところであるのに、運命はさらに狭く不自由・・・しかも、決して宿命の外に出ているわけではなく、宿命の中でも底辺の極一部の狭い範囲でしかない。
ですので、運命から抜け出すためには、いかに耐え難く苦痛であっても、「自分」を認め、「自分」を背負い、「自分」として生きていく、即ち宿命を生きるしかありません。
「自分」を背負うとは、自分が「自分」である理由を正確に理解し知り尽くすことです。
運命に閉じ込められ、それも耐え難く、かといって「自分」を背負い宿命に生きることもできない・・・そういった人達が求め、希望を見出すのがオカルトとか神とか宗教とかなのでしょう。
しかし、オカルトとか宗教も「自分」を背負わぬ限り、どこまでいっても「自分」からの逃避にしかすぎず、即ち運命に他なりません。
というか、客観的絶対的事実などというものは存在せず、事実は自分の中にしかありません。つまり、何故「それ」をやるのか、という自分の本当の動機こそが「それ」を位置付ける唯一の指標であり、事実なのです。
オカルトでも宗教でも、莫大な財を築いて慈善事業で多くの人を助けるといった世界中の誰もが尊敬し感謝することであっても、それをやる本当の動機が「自分」からの逃避、「自分」という苦痛を紛らわすドラッグを求めてのことであったら、それは運命に他ならず、運命の中で生きている限り碌なことにはなりません。
後者の慈善事業で多くの人を助ける人にしても、それを成し遂げても他の人には感謝されるでしょうが、当人にしてみれば「それ」の位置付けは「自分」を背負えないが故に「自分」から逃避せざるを得ず、「自分」以外の”自分”となって「自分」という苦痛を味わわないで済ませるために、自分は”自分”であるという根拠、状況証拠を求め、それを得たということに過ぎず、この「事実」を心のどこかでは分かっているので、そこまでのことを成し遂げてさえ本当の充実感であるとか満足、誇り、生きている実感を感じることもなく、逆にみじめさや恥、後ろめたさ、虚しさみたいなものを感じ続けるのではないでしょうか。
そこまでやっても得られるのは、ただ「自分」という苦痛をドラッグで誤魔化していることによる不健全な快楽、痛みを麻酔で遮断しているだけの楽さであり、その痛みの元となっている「自分」は決して消えないし、その「自分」に対して一歩も働きかけることもないまま、折り合いもつけられぬまま、ドラッグ中毒者として、麻酔を乞う乞食として一生を終えてしまうということなのですから・・・
つまり、どんなに立派なお題目を唱えても(真理、悟り、解脱、人類愛、神など)、世界中の誰もが認める立派で偉大なことでも、それをやる当人の本当の動機がどういうものかということが、当人の本当の満足、誇りといったものを決定付ける唯一のものだということです。
最後に、私の好きなニーチェの言葉を引用して終わりたいと思います。
「最も暗い運命(宿命)を大きく肯定する生の強さを示すことこそが、人間にとって最も偉大で高貴な事業である」
「君達は己自身に耐えることが出来ない、また己自身を充分に愛していない。それで君達は隣人を愛へと誘い、誘いに乗った隣人のその過ちによって己をメッキしようとするのだ」
「悪とは何か?(「自分」を背負うことの出来ぬ)弱さから生じる一切のもの」

ニーチェと仏教
湯田豊/著

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