今回は宿命と運命について私の考えを述べてみましょう。
まず、宿命というのは、人間には越えることの出来ないもの、また越えることに意味がなく、越えようとすべきでもないもの。
対して運命というのは、越えることが(一応)可能であり、越えることに意味があり、越えるべきもの、です。
具体的に言うと、宿命というのは人間として生まれてしまった以上、人間として生きていくしかないといったことです。
更に言えば、様々な外部要因(運)により「自分」が形成されてしまった以上、「自分」として生きていくしかないということです。
対して運命というのは、その「自分」が自分自身に耐え難いものであり、或いは「自分」であっては生きていけないと思っているが故に、「自分」という宿命から逃れようとして「自分」以外の何者かになろうとする試みにより陥るものです。正確に言えば、「自分」に近づくことさえ出来ないが故に、「自分」以外の何者かにならざるを得ない状態です。この状態が運命を作り出します。
ですので、「自分」が満足のいく心地よいもので、或いは何とか耐えられる範囲のものである人(「自分」から逃避しないで済んでいる人)に運命はありません。これは運命を越えているというよりも、最初から運命という領域に陥っていないということです。
では、自分にとって耐え難い「自分」とは何か。
トラウマ、屈辱、恐怖、恥、みじめさ、陰惨、残酷、醜さ、罪悪、劣等、絶望、理不尽、疾しさ、異常さ・・・なんであれ自分にとって耐え難い苦痛をもたらすものを抱えている「自分」です。
この「自分」こそが宿命であり、この「自分」から逃れようとすると運命に陥ります。
「自分」から逃れようとするということは、自分は「自分」であるということを認めず、「自分」以外の”自分”であると認識しているということです。しかし、事実としての「自分」がある以上、”自分”とは架空のものでしかなく、事実に根ざさない砂上の楼閣です。
砂上の楼閣なので、ちょっと風が吹いただけですぐに崩れそうになります。しかし、その砂上の楼閣でしかない”自分”が崩れるということは、その”自分”によって隠されていた「自分」が自分の目に露わになるということで、しかし、「自分」は自分にとって耐え難いものである・・・故にその”自分”にしがみつかざるを得ず、いつ”自分”が崩されてしまうかという不安に脅かされ続け、その不安から逃れるために”自分”を強固にすることのみに汲々とし、それ以外のことは考えることすら出来ない(考えること、考え方の有りよう自体が”自分”としてのものでなければならなくなる。内面的な思考レベルから”自分”を外れるわけにはいかなくなる)・・・これが運命です。
”自分”とは事実に根のないものであり、そもそもが嘘であるので、自分は”自分”であるということに確信が持てず、非常に脆いものです。なので、自分は”自分”であるということを取り保つ為に、絶えずそれを支えてくれる根拠を求めることになります。
そして、その根拠が自分の中にないわけですから(そもそもが嘘なわけですから)、必然的に外部に状況証拠的、既成事実的な根拠を求め、それが得られなければ強要したりします。
その根拠となるものは人により様々ですが、要は他者から”自分”であると認められることであり、”自分”として扱われることです。
自分は”自分”であると他者から認められる為に必要となる(と当人が思っている)ものが、地位であったり、権力、名誉、名声、お金、明るさ、強さ、武勇伝、魅力、頭のよさ、経歴、友人の多さ、といったもので、つまりは”自分”を証拠立て、証明する状況証拠、既成事実です。
そして、”自分”とは「自分」を否定する必要から生まれたものですから、「自分」と反対のものになります。罪悪に対しては正義、弱さに対しては強さ、恥に対しては誇り、劣等に対しては優等など。
そういった”自分”(を証拠立てるもの)への欲望は詰まるところ、「自分」から逃避したい欲望、即ち(苦痛な)宿命から逃げ出したい欲望です。というか、全ての欲望は苦しみから逃れたいという欲望であり、この欲望が仏教でいうところの執着ということなのだと思います。
この欲望は自然なものですが、嘘でもいいからという安易な逃避を計ると道を誤り、運命に陥ることになります。
ですので、運命とは、「自分」という苦痛から逃れさせてくれるドラッグを求め続けざるを得ない状態、そのドラッグ(たる他者の評価)の奴隷となっている状態で、そのドラッグを得るためにはいかに苦痛でも不本意でも(それが「自分」という苦痛よりはマシである間は)何でもせざるを得ず、そのドラッグが貰えなくなる危険を感じることは(いかに「自分」が望んでいることであっても)一切出来ないという状態です。
運命とは、ドラッグという鎖に繋がれた全く自由のない状態です。ドラッグが切れたら、「自分」という苦痛が襲ってくる・・・そしてそれに耐えられない。
宿命でさえ不自由な狭い牢獄のようなところであるのに、運命はさらに狭く不自由・・・しかも、決して宿命の外に出ているわけではなく、宿命の中でも底辺の極一部の狭い範囲でしかない。
ですので、運命から抜け出すためには、いかに耐え難く苦痛であっても、「自分」を認め、「自分」を背負い、「自分」として生きていく、即ち宿命を生きるしかありません。
「自分」を背負うとは、自分が「自分」である理由を正確に理解し知り尽くすことです。
運命に閉じ込められ、それも耐え難く、かといって「自分」を背負い宿命に生きることもできない・・・そういった人達が求め、希望を見出すのがオカルトとか神とか宗教とかなのでしょう。
しかし、オカルトとか宗教も「自分」を背負わぬ限り、どこまでいっても「自分」からの逃避にしかすぎず、即ち運命に他なりません。
というか、客観的絶対的事実などというものは存在せず、事実は自分の中にしかありません。つまり、何故「それ」をやるのか、という自分の本当の動機こそが「それ」を位置付ける唯一の指標であり、事実なのです。
オカルトでも宗教でも、莫大な財を築いて慈善事業で多くの人を助けるといった世界中の誰もが尊敬し感謝することであっても、それをやる本当の動機が「自分」からの逃避、「自分」という苦痛を紛らわすドラッグを求めてのことであったら、それは運命に他ならず、運命の中で生きている限り碌なことにはなりません。
後者の慈善事業で多くの人を助ける人にしても、それを成し遂げても他の人には感謝されるでしょうが、当人にしてみれば「それ」の位置付けは「自分」を背負えないが故に「自分」から逃避せざるを得ず、「自分」以外の”自分”となって「自分」という苦痛を味わわないで済ませるために、自分は”自分”であるという根拠、状況証拠を求め、それを得たということに過ぎず、この「事実」を心のどこかでは分かっているので、そこまでのことを成し遂げてさえ本当の充実感であるとか満足、誇り、生きている実感を感じることもなく、逆にみじめさや恥、後ろめたさ、虚しさみたいなものを感じ続けるのではないでしょうか。
そこまでやっても得られるのは、ただ「自分」という苦痛をドラッグで誤魔化していることによる不健全な快楽、痛みを麻酔で遮断しているだけの楽さであり、その痛みの元となっている「自分」は決して消えないし、その「自分」に対して一歩も働きかけることもないまま、折り合いもつけられぬまま、ドラッグ中毒者として、麻酔を乞う乞食として一生を終えてしまうということなのですから・・・
つまり、どんなに立派なお題目を唱えても(真理、悟り、解脱、人類愛、神など)、世界中の誰もが認める立派で偉大なことでも、それをやる当人の本当の動機がどういうものかということが、当人の本当の満足、誇りといったものを決定付ける唯一のものだということです。
最後に、私の好きなニーチェの言葉を引用して終わりたいと思います。
「最も暗い運命(宿命)を大きく肯定する生の強さを示すことこそが、人間にとって最も偉大で高貴な事業である」
「君達は己自身に耐えることが出来ない、また己自身を充分に愛していない。それで君達は隣人を愛へと誘い、誘いに乗った隣人のその過ちによって己をメッキしようとするのだ」
「悪とは何か?(「自分」を背負うことの出来ぬ)弱さから生じる一切のもの」
ニーチェと仏教
湯田豊/著
私は株をやるのですが、このところの日経の暴落は酷いものです。
追証回避のため持ち株を安値で手放さざるを得ず、惨憺たるものです。
どうしたものかと考えてもどうなるものでもなく、フト思い出したのが占星術です。株を始めたばかりの頃は右も左も分からず、占星術などにも頼ったものです。
それで久々に
Stargazerという占星術ソフトを立ち上げてみました。
以前に登録してあった銘柄の占星術チャートを見るとも無く見ていて、目に留まったのがコモンウェルス・エンターテインメント(7612)です。
アセンダントにトランジット木星がコンジャンクション(零度で接触)になる・・・。

コモンウェルスの占星術チャート
アセンダントに木星のコンジャンクションは最大の吉相なのですが、この地合悪の中、特に新興市場の下げはきつく、とてもファンダメンタルズでは買えない材料株、仕手株のコモンウェルスが上げるとも思えず、資金に余裕も無いので見ているだけにしたのですが、7月27日、40円程上昇しました。材料が出たわけでもないのでテクニカルで上げたということでしょう。25日線乖離率で見てそろそろというカンジはあるので、この上昇が木星の効力によるものかどうかは分かりませんが、これだけ地合が悪い中で大きな出来高を伴って上昇したということは、木星の効力もあったのかもしれません。

コモンウェルスの日足
コモンウェルをオーブ(誤差)1度に入るちょっと前の21日あたりから買い集め始めたとすれば、だいたい170円ぐらいです。170円平均で1万株集めたとし、27日に200円で捌いたとすれば30万円の儲けです。27日は200円以上での出来高も12万株ほどあったので容易に捌けました。
まぁ、株の世界での「たられば」ほど意味の無いものはありませんが。
流石に翌28日は下げて、一日だけの突飛高で終わりましたが、アセンダントに木星がピッタリ零度になるのは8月2日、また噴き上がるかもしれません。
では、次にアセンダントに木星が来る銘柄は何だろうと探してみると、カシオ計算機(6952)があります。しかし、オーブ1度で見ると既に接触しており、株価もかなり上がっています。ここから更に上げるか、頭打ちとなるのかは分かりません。ピッタリ零度になるのは8月8日。
その先を探してみると、三菱マテリアル(5711)があります。ピッタリ零度になるのは9月2日。
探したのは東証1部の銘柄だけなので、他にもあるかもしれません。
株を始めた頃に占星術を当てにして売買していたときの実感としては、あまりはっきりとした相関関係は見られなかったと記憶しているのですが、流石に最大吉相のアセンダント×木星の効力は出るということでしょうか。
カシオと三菱マテリアルに注目です。
金融占星術入門テーマ:注目銘柄 - ジャンル:株式・投資・マネー
マーフィーの法則というのが一時期流行りました。今でも熱烈なファンがいるようです。
理想の状態を思い描き、それが必ず実現するのだと夜昼となく念じ続ければ、それが潜在意識に刷り込まれ潜在意識の力によって実現するのだそうです。
これは、言ってみれば科学の発達により神を信じにくくなった現代に登場した新しい宗教です。新しいといっても、死にかけの神に”潜在意識の活用”といった”科学”の仮面を被せて復活させただけのことだとですが。
超越的な力を持つ神に祈れば、神が苦しみや不幸を解決してくれ願望を叶えてくれる、ということから、超越的な力を持つ潜在意識なるものに理想の状態を刷り込めば、潜在意識が苦しみや不幸を解決してくれ願望を叶えてくれるということになっただけで、本質は宗教、信仰であることに変わりはありません。依存の対象が変わっただけです。
潜在意識というと心理学のようですが、心理学では潜在意識の影響というのは必ずその人にとって都合の悪い嫌なもので、言ってみれば、その人が願う理想の状態の実現を頓挫させようとするものです。
その人にとって都合の悪い嫌なこと、苦痛なことから目を逸らせば、それは潜在意識へと追いやられます。
心理学の用語で言えば、顕在意識(=自我)の中にあった或る認識を自我領域から追い出し、無意識の領域へと抑圧する、ということになります。
マーフィーの法則というのは、それ(その人にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦痛なことから目を逸すこと)を薦めているので、実践すればするほど事態は悪化していきます。潜在意識に刷り込まれるのは、その人にとって都合の悪いことだからです。
そもそも自覚できているということは、自我の領域内にあるからであって、決して潜在意識などではないのです。自覚が出来ないからこその潜在意識であり無意識なのです。
なので、理想の状態をいくら強く思い描いても、それは自我の領域内のことであって潜在意識などは関係しません。
理想の状態が必ず実現するのだと強く思い描けば思い描くほど、というか、その実現に障害となる、或いは実現が不可能であるといった不都合な要因から目を逸らせば逸らすほど、不都合な要因の方が潜在意識(の領域)に刷り込まれる(追いやられる)ことになります。そして、目を逸らしたからといって、その要因が消えてなくなるわけではなく、ただ、自我の視野の範囲内から消えたというだけで、視野の範囲外(無意識、潜在意識の領域)で依然として存在し続け、視野の範囲外から様々な影響を及ぼし続けます。その影響は、その要因を自我の領域内に取り戻す(つまり自覚する)まで止むことはありません。
そして、その影響とは先にも言ったとおり、必ず悪い影響なのです。何故なら、潜在意識に刷り込まれたのは、その人が目を逸らした、その人にとって都合の悪いものだからです。
都合のよい事実から目を逸らす人はいません。都合が悪く、苦痛なので目を逸らします。なので、潜在意識に刷り込まれている(抑圧されている)のは必ず、自覚したら耐え難い苦しみをもたらす、その人にとって都合の悪い「事実」だけなのです。都合のよい、心地よい、ポジティブなものが潜在意識に刷り込まれるなどということはありえません。
例えば、或る人が浮浪者のような汚い格好をして、悪臭をプンプン放ちながらレストランに入っていったとしましょう。当然追い出されます。しかし、自分がそのような汚い格好をしているという「事実」から目を逸らしている人は、何故追い出されたのかが分からず、人権迫害、差別だなどと怒り心頭となるでしょう。そして、その「事実」から目を背け続ける限り、この人は一生こういった”人権迫害、差別”に苦しみ続けます。
つまり、自分が浮浪者のような汚い格好をしているという、みじめさ、恥に耐え切れず、その「事実」から目を逸らせば、そんな格好でレストランに入っていけば追い出されるという当たり前の現実をも見失うことになります。この当たり前の現実のことを仏教では「道理」というそうです。
ですので、なにが開運に繋がるかといえば、自分にとって耐え難く、都合の悪い「事実」に目を向け、「道理」を知ることだと思うのです。
潜在意識は活用するものなどではなく、その悪影響をいかに減らしていくかという観点から見るべきものだと思うのです。
ただ、都合の悪い「事実」に目を向けるということ、これが簡単なようでなかなか難しいのです。目を逸らすということは、まさに無意識的にやっていることなので(つまり目を逸らしているということの自覚がないので)、努力とか決意(などの自我の力)で何とかなるものではないのです。
「事実」を背負うには、やはり何らかの運の様なものが必要となるように思います。
しかし、心が「その方向」に向いていなければ、運に出遭っても気付かずに通り過ぎていくだけです。
ですので、運とは何かといえば、その「事実」に耐えられない自分を、耐えられる自分にしてくれる何かと出遭えることだと思うのです。
占いが何故当たるのか、その根拠、メカニズムが問われることはあまりありません。恐らく、当たらなくて当然の迷信、当たったというときはまぐれだと思っているか、神秘的、超越的な理屈では分からない何かがあり、考えても分からない、科学的に分析、実証できないのだから問うてもしかたないということなのでしょう。
1976年にコラーストロム(N.Kollerstrom)という人が、英国占星学協会AA機関紙に発表した研究によると、銀溶液や硫化鉄と硝酸銀の1%溶液に濾紙を浸した場合、月と火星の動きに対する反応がみられたとのことです。また、溶液に1%の硫化鉛を加えることにより土星の動きに対する反応もみられたとのこと(火星、土星が黄道上で同じ位置に来たとき、濾紙に吸収される鉛の量が増大するのだそうです)。
太陽や月は、光、熱、引力など目に見える影響を地球に与えているので、地球上に住む人間にも有形、無形の影響を与えるのではないかとも考えられますが、遠く離れた土星や冥王星などが地球、人間に影響を及ぼす、人間の運命に関わりがあるというのは、ちょっと考えにくいことです。
しかし、前述の研究結果のように、遠く離れた天体も科学的に解明されていない何かを発していて、それが地球まで届き何らかの影響を人間の精神に、延いては運命に及ぼすのかも知れません。というか、西洋占星術の主張、根拠はそういうことであり、後はそれを信じるか信じないかということでしょう。まぁ、それよりなにより本当に占星術が開運に役に立つのか否かということですが。
占星術の基本は、ネイタルチャートという生まれた時の天体の配置を図にしたものから生まれ持った運勢を解読することと、ネイタルチャートの各天体の位置に対して、現在や未来の実際に運行している天体の関わりを見て今現在や未来の運勢を判断するということです。
ですが、同じホロスコープでも見る人によって診断結果にかなり差が出ます。これは、それぞれの人が違ったフレームで世界や他者や自分や物事を位置付けて認識しているため、その差が出るということです。分かりやすく言えば価値観とかのことですが、私が思うに本当の開運というのは、性能の悪いフレームがより性能の良いフレームに変わることであり、例えば棚ぼた式に大金を得ても、それが悪しきフレームに対し何の影響も及ぼすことがなければ開運でも幸運でもないと思っています。
フレームというのは、「その人」がどういう「世界」に住んでいるかということで、地獄のような「世界」に住んでいて、それで大金を得たとしても実際に実感として幸福感はあまりないでしょう。
カルマ落としのところでも少し触れましたが、例えば人間は必ず死ぬという絶望、恐怖から逃れるために輪廻転生を信じている人がいたとします。その人の希望は善を積み、悪を犯さず、神に認められ神の恩寵を受け、あの世や来世で幸福な生活を送ることです。
この人の場合、悪を犯すという選択肢がありません(その善悪の基準もそれぞれの人が持つフレームによって違うのですが)。正確にいえば、この人が信じている神の規範から外れるという選択肢が心理レベルから無く、実際にそういう選択を出来ないわけです。選択肢の少なさはイコール自由の無さであり、自由が少ないほど運命的、宿命的な人生を送ることになります。
無論、だからといって悪を犯せなどと言っているわけではありませんが、そもそもなにが運命かといえば、その「世界」に住んでいて、その「世界」の外に出ることが出来ず、一生をその「世界」で過ごすということ自体がひとつの運命です。
それぞれの人が、違った”現実”の中に生きているわけです。
ですので、酷い”現実”から抜け出すことが開運なのだと思っているわけですが、そのためには、前述の人の例でいえば人間は必ず死ぬという絶望や恐怖を受け入れ、背負わねばなりません。そうして初めて輪廻転生という「世界」から抜け出すことが出来ます。
この譬えは分かりにくかったかもしれませんが、その死という絶望、恐怖を、背負い切れないでいるトラウマであるとか、恥、惨めさ、屈辱、理不尽、自己嫌悪、将来の絶望などといったことに置き換えるとピンと来るものがあるかもしれません。
つまり、そのフレームを支え固定しているのは、あまりの苦しさ故に直視できないでいる「なにか」だと思うのです。
その「なにか」を隠し、見ないで済むようにするためには、そのフレームでなければならないということです。
ですので、いくら占星術を勉強しホロスコープとにらめっこしても、あまり開運には繋がらないように思います。
私は、その「なにか」を直視するのに、過去の後悔していることに対して何故あのとき別の選択肢を選べなかったのか、納得がいく答えが出るまでその理由をノートに書き出してみるのがよいと思うのですが、これは私のネイタルチャートにおいて言語の水星と超現実の冥王星がトラインであり、たまたま私には書くことがよかったというだけのことかも知れません。
テーマ:開運 - ジャンル:謎
水野南北は江戸後期の観相学者です。
幼い頃に両親が他界し孤児となり、鍛冶屋をやっていた叔父のもとに引き取られます。十歳の頃から飲酒を始め喧嘩口論で生傷が絶えず、十八歳の頃、酒代欲しさに犯罪を犯し入牢。牢内で囚人と娑婆の人間との人相に際立った差異があることを発見し観相学に興味を持ちます。
出獄後、さっそく巷の易者に人相を観てもらったところ、「剣難の相があり、あと一年の命。避難の法は出家すること」と言わます。
その後しばらくして、刃物沙汰があり危うく命を落としそうになるという事件が起こり、易者に言われたことを真に受けた南北は禅寺に入門を乞いますが、前科者の南北など受け入れるわけにはいかない住職は、一年間麦と大豆だけの食事を続けられたら入門を許すと告げます。態よく追い払う口実だったわけですが、南北はそれを実行します。
麦と大豆だけの粗食で港湾労働に従事して生計を立て一年が経ちます。が、剣難にも遭わず命もある・・・。先の易者を訪ね問いただすと、剣難の相が消えている、なにか大きな功徳を積んだに違いないと言われ、食事を変えたことを話すと、それが陰徳を積んだことになって相まで変えたのだとのこと。
禅寺に入る必要もなくなった南北は観相家を志し、二十一歳の時諸国遍歴の旅に出ます。人相を観るため床屋で働いたり、全身の相を観るため銭湯で働いたり、死相を観るため火葬場で働いたりして観相の研究を続けます。しかし、いくら研究をしても百発百中とはいかず、悩んだ末、伊勢神宮に参詣し断食と水ごりの荒行を修めた結果、「人の運は食にあり」との天啓を得ます。
それ以後、名古屋の熱田神宮の近くに居を構え、生涯粗食を貫きました。主食は一日に麦を一合五勺、副食は一汁一菜、大好きな酒も一日一合と決め、盆も正月もなくそういった粗食、節食を貫きました。
南北自身は貧窮短命の相で、決して成功するような相ではなかったそうですが、食を慎んだため七十八歳まで健康に生き、観相家として千人もの門人を抱える大家となり、晩年は皇室の贔屓を受け従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」及び「日本中祖」の号を贈られ、一丁四方の大きな屋敷に倉が七棟という財を成しました。
南北の思想の要諦は、人間にはそれぞれ持って生まれた徳分というものがあり、その徳分に応じ、一生の間に摂ることが許されている食事の量は決まっている、故にその徳分を越えた量を摂れば、徳を損ねて運が悪くなり、食を慎めば徳が余り、余った徳は運の良さとなって表れるということのようです。
この思想の基となる理屈はこういうことのようです。
この世に生まれたということは、天より生命を与えられたということであり、それは同時に生命を全うするのに必要な一生分の食も与えられているということである。
命ある者には全て天与の食事量が確保されている。
この世で自分が所有しているものは天与の食事量のみであり、それ以外のものはお金でも物品でも、たまたま自分に巡り来たっているだけであり、自分のものではない。天与の食事量以外のものは、全て天の所有物である。
故に、お金や物を貧しい人に施しても、また自分が充分に食して日々神に美味を献じても、徳を積んだことにはならない。
常食が三椀であれば二椀にすることが本当の徳というものである。
それは自分の所有物である食を天に献じることであるからだ。
自分が持っているものは食のみであり、食以外に献じるものなど何も持っていない。
自分の所有物ではない、元々が天の所有である物をいくら差し出したところで、それは施しでも何でもない。
食べなければ生命を保てない。食は命である。持っているものは命だけなのである。食を献じてこそ初めて徳を積んだといえるのである。
天は献じられた食を他にまわすことが出来るので、三椀を二椀にすれば一椀を他の生あるものに施したことになり、一椀分徳を積んだことになる。
逆に、自分の割り当て以上に食する者は、天に借りをつくっていることになる。また、必要以上に他の命を奪っていることになる。
借りたものを返すのは天地の真理である。貸主が人間ならば催促もしようが、天は催促なしに取り立てる。自分の代に取り立てられなければ子孫から取り立てる。子孫から取り立てられなければ、その家を亡ぼし家系を断絶してしまう。
この真理によって、身の程知らずに大食の者は不運で、災難や損失が多くなるのである。
とにもかくにも食を慎みさえすればよいとのことのようで、南北の著書におもしろい問答があります。
問「食を慎むのは容易いのですが、遊所行きを止めるのは難しく悩んでいます」
南北の答え「それは大いに結構なことだ。何と言っても慎しみの第一は食である。遊所に行って散財し、放蕩と言っても、食を慎んでいれば家がなくなったり病気になることはなく、長生きしておのずから富むのである。食は本である。その本を厳しく慎めば他のことは枝であり論ずるに足りない。今後とも食を慎んで遊所に行きなさい。食を慎んでさえいればすべての凶悪は許される」
他のところでは、食を慎んでさえいれば犯罪を犯しても許されるとまで言っています。
実際に南北は大きな財を成し名声も得、観相も先ず、食の多少を聞き、それによって占えば万に一つも外したことがなかったということで、食と運には何か関係があるのかもしれません。
毒も極少量であれば薬となるように、食べ物も人体にとっては異物であることに変わりはなく、生命維持に必要な量以上の食事は体内に異物を溜め込んでいるようなもので、それは毒となり健康を害すことになる・・・ガンなども贅沢病といわれ、ガン細胞が増殖するにもエネルギーが必要で、過食により体内に使われない余剰エネルギー、毒がある状態というのは発病の可能性が高い。餓死すれすれのわずかの餌しか与えないラットには、ガン細胞を移植しても全く育たないという実験結果も出ているそうです。
確かに人間にとって健康はなにより大切なもので、健康に過ごせることは幸福なことですが、それだけで食を慎めば運が開けるとは言えないでしょう。
人間も動物であることを考えれば、飢えた状態というのは、生命の危機的状態であり、何としても糧、獲物を見つけ、捕獲し摂取せねばならない状態で、本能的に脳が活発に働く状態であると考えることもできます。つまり、動物は生命維持、種の存続のみが仕事で、それ以外のときは無駄にエネルギーを消費しないため何もしないようにできていると考えれば、人間も満腹のときや体内に余剰エネルギーがあるときは脳が働かず、行動をセーブするホルモンか何かが分泌されているのではないか。食を慎み脳が活発に働いている者は、人生の様々な分岐点で、冴えた頭で良い方向を選んだり、行動を起こしたりして運を掴み開運となる、一方、過食の者は・・・などとこじつけることも出来ますが、それだけではない、何かがあるような気もして興味は尽きません。
「天子をはじめとして生あるものは、食べるための業のないものはない。鳥獣にいたるまで日々駆けまわって心身を労して食べている。これは食が業にそなわる所である。人としてその業をしないものはない」
身近な、当たり前のように食べている日々の食というものも、深く考えてみれば、その先に人間の本質であるとか、運命の根本要因であるとか、そういった何かが見えてくるような気がするのです。
お金の掛からない(というか節約になり)、健康にもよい開運法、始めてみるのもよいかもしれません。
具体的にどうすればよいかというと、食事の量を控えめにする、というそれだけのことですが、南北の言葉を引用してみましょう。
「その人間の体の大小強弱、働きの多寡(運動量)によって、おのおの適量がある。たとえば三膳食べて満腹する者は、二膳半食するをもって腹八分といい、また腹に節なりというのである。空腹となって食欲をおぼえたとき人間の内臓は自然とその口を開くものであり、また、腹八分目になると自然とその口を閉じるものである。そこで節制すればよいのであるが、なおかつ食べるので内臓の口が閉まらなくなり、ますます食べないと満腹感をおぼえないという悪循環が起こる。これを宿食(しゅくじき)といい、病の根源かつ凶運の原因となるものである。非運病身となるのは、みな飲食より起こることを知らねばならない」
ただし、いくら腹八分目の節食を心掛けても、コンビニ弁当やカップラーメンなどのジャンクフードではダメで、新鮮で健全な食事を規則正しく摂らねばなりません。
「食事の時間が不規則な者は、吉相であっても運勢は凶である。何事も成就しそうで成就せず、生涯、生活が不安定で、晩年は特にそうである」
現代女性はどんどん社会進出を果たし、強い、元気だなどと言われていますが、これはダイエットに励み、知らず知らずの内に陰徳を積み開運している女性が多いということなのかも。
だまってすわれば 観相師水野南北一代
神坂次郎/著
食は運命を左右する 現代語訳相法極意修身録
水野南北/著 玉井礼一郎/訳